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「光る君へ」の清少納言(ききょう)実はすでに人妻で子供もいた!息子・橘則長はどんな人物?その生涯をたどる

「光る君へ」の清少納言(ききょう)実はすでに人妻で子供もいた!息子・橘則長はどんな人物?その生涯をたどる:2ページ目

橘則長・略年表

  • 天元5年(982年) 誕生(1歳)
  • 寛仁元年(1017年)11月 非蔵人(36歳)
  • 治安元年(1021年)1月 六位蔵人(40歳)
  • 同年8月29日 図書権助
  • 治安2年(1022年)3月29日 修理亮(41歳)
  • 治安3年(1023年)2月 式部丞(42歳)
  • 万寿元年(1024年) 1月 従五位下(43歳)
  • 時期不詳 橘忠望女(能因法師の姉妹)と結婚
  • 万寿2年(1025年) 嫡男・橘則季が誕生(44歳)
    ※このころ、母の清少納言が亡くなる
  • 時期不詳 庶子・橘則孝(母親不明)が誕生
  • 長元6年(1033年)1月 越中守(52歳)
  • 長元7年(1034年) 4月 卒去(53歳)

【没後】

  • 応徳3年(1086年)9月16日 白河天皇の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』が完成、和歌が3首入選
  • 永享11年(1439年)6月27日 後花園天皇の勅撰和歌集『新続古今和歌集』が成立、和歌が1首入選

終わりに

以上、清少納言と橘則光の息子である橘則長の生涯をたどってきました。

則長は一条天皇・三条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇と4代の天皇陛下に仕え、実務面から朝廷を支えたことが分かります。

紫式部の没年は長和3年(1014年)から長元4年(1031年)まで諸説あり、大河ドラマでどの説が採用されるかは分かりません。

だから則長がどこまでストーリーにからんでくる可能性があるかも未知数なので、ワンチャン出番に期待しましょう。

よく清少納言は「中宮定子の没後に宮中を去り、晩年は落ちぶれた」と言われます(没年は不詳)。

しかしこれだけ頼もしい息子がいれば、少なくとも食うに困ったり、野垂れ死んだりようなことはなかったのではないでしょうか(母子関係にもよるでしょうが……)。

ちなみに清少納言は再婚相手との間にも娘の小馬命婦(こまのみょうぶ)を生んでおり、そちらの話も改めてできたらと思います。

※参考文献:

 

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