用便は女官を呼んでから!?平安時代のやんごとなき姫君や平安貴族たちのトイレ事情:3ページ目
庶民はどうしてた?
庶民たちは樋箱などは使っておらず、掘っ立て小屋で地面に穴を掘っただけの汲み取り式や、道端で用を足すことも。高下駄の登場は、便を踏まない配慮から生まれたという説もあるので、これまたフランスでは窓から直接、壺の中身のし尿をぶちまけていたので紳士の外套が発達したという下の文化と共通していたり。
厠の登場
垂れ流しに近いのですが、いわば水洗トイレのようなものもありました。貴族の屋敷の敷地内に小川などから水を引き込んだ東屋のようなものを作り、中ではその小川の両端に足を乗せる2枚の板を置きまたがって使用したり、穴をあけた板を渡して使用したそうです。「川屋」とよばれていたのが転じて「厠(かわや)」になったといいます。
しかしこれは貴族の姫君たちは利用しなかった様子。まず人前に顔を出すのがはばかられる時代。いくら屋敷内とはいえ下衆(身分の低い使用人)にみられる危険性もあるわけですし、室内では着物を引きずって歩いていたわけですから利用しにくかったと思います。
どうでしたか?最低でも一日3回程度は確実に行う行為。当時の姫君たちは相当、気を使ったことでしょう。
参考:「日本古代の排泄観念と樋洗童に関する一考察」寺田綾、『トイレ:排泄の空間から見る日本の文化と歴史』屎尿・下水研究会