戦よりも鷹狩りが好き♡本多忠勝も「いい加減になされ!」と呆れた徳川家康の熱中ぶりがコチラ:2ページ目
秀吉の上洛要請を拒否
……既に長久手の戦ひ畢り。豊臣秀吉が許より土方下総守雄久等を使として。御上京の事を勧め進らせしに。三河の吉良の辺に狩せさせ給ひしが彼等を召出。御手に据られし鷹を指し給ひながら。われ此頃は鷹つかふをもて。明暮のたのしみとす。都方は織田殿のすゝめにて一覧せしかば。今はた見まくもおもはず。さりながら秀吉あながちに我をのぼせむとて。軍勢さしむけんには。この鷹一据もて蹴ちらさんものをと仰られしかば。雄久等大に恐れて京へ逃帰りしとか。……
※『東照宮御実紀附録』巻二十四
小牧・長久手の合戦(天正12・1584年)後、豊臣秀吉の使者として土方雄久がやって来ました。上洛=秀吉への臣従を勧めるためです。
「たまには京都見物にいらしてはいかがかと……」
この時も家康は鷹狩りを楽しんでおり、上洛要請を鼻で笑って言いました。
「この世で鷹狩りほど面白いものはない。京都なら前に織田殿の勧めで見物したが、また見たいと思うほどではなかったのぅ」
そんな事を言わずに……困惑する雄久へ、家康は重ねて嘯(うそぶ)きます。
「もし、猿(秀吉)めが無理に上洛せぇと軍勢を差し向けるならば、わしの鷹一据(ひともと。一羽)で蹴散らしてくれるわい」
さすがに鷹一羽に数万の軍勢が蹴散らせるとも思えませんが、さすがは戦上手の家康よと恐れをなして京都へ逃げ帰ったのでした。