考えが甘すぎ!?幕末期に明け渡された江戸城、実は「すぐ返してもらう」つもりだった【後編】
勝海舟の提案
【前編】では、幕末期に明け渡された江戸城と、水戸藩に移された徳川慶喜について、幕府側の人々は「いずれ戻ってくる」と考えていたことを説明しました。
考えが甘すぎ!?幕末期に明け渡された江戸城、実は「すぐ返してもらう」つもりだった【前編】
そして、それを見越して当時の大総督府に江戸城の返還を具申したのが、かの勝海舟です。
当時の江戸は治安が悪化しており、新政府から旧幕臣らが江戸の警備を委任されていました。そのタイミングを、勝はチャンスと捉えたのです。「いっそ江戸城と将軍を元に戻せば、治安も回復するんじゃない?」というわけです。
さてしかし、この提案は最終的には黙殺に近い形で処理されてしまいます。
水面下で進む決定事項
もともと、勝海舟の提案に対する総督府の反応は、決して悪いものではありませんでした。
彼らは常に佐幕派からの襲撃に怯えていましたし、幕府側に江戸城を返して、100万石程度の領地を安堵すればいいのではないか、という意見がほとんどだったのです。
しかし、京の新政府の大多数の意見はそうではありませんでした。
江戸城が明け渡されたのは1868年4月11日のことでしたが、4月の頭に開かれた最高意思決定機関の会議でも、徳川家を駿河へ移すか江戸へ戻すかで意見が二つに割れています。そして、最終的には駿河へ移封するという結論にまとまっていたのです。
つまりこの時点で、すでに将軍を江戸に戻すという選択肢はなかったということです。
このため、江戸城も新政府が召し上げることで決定し、新政府の最高官庁である太政官が入ることになりました。
このあたりの決定内容が勝などの旧幕臣の耳に入らなかったのも当然のことで、政府は旧幕臣の反発を避けるためにこれらの決定事項は秘密にしていました。あくまでも、手続きは水面下で進められていたのです。
よって、最初から、勝の提案が受け入れられる可能性はありませんでした。