ちょっと待って!江戸時代「安政の大獄」は本当に大弾圧だったのか?井伊直弼の本当の目的と後世の誤解:2ページ目
「大獄」の実態は?
安政の大獄と呼ばれる一斉処分の内容を見ると、井伊は敵対していた一橋派を要職から外して、関係者を相次いで捕縛しています。さらに「戊午の密勅」に関係した公家も、自主という形で処分されました。これが主な処罰対象者です。
幕臣・朝廷・諸藩の家臣や大名まで摘発するというのは異例のやり方で、かなり容赦のないやり方だったのは間違いないようです。この中で、老中暗殺計画を企てた吉田松陰や、他にも橋本佐内などが処刑されたのは有名な話ですね。
ただ、安政の大獄が「大獄」という言葉からイメージされるほどの大弾圧だったのかは疑問です。
そもそも処罰者の人数が史料によってまちまちで、一般に100人以上と言われてはいますが、当時の公家の九条尚忠の書状では75人と記されていますし、そのうち処刑されたのは8人とそう多くありません。厳密には獄死を含めると14人ですが、それ以外は追放や謹慎処分で済んでいました。
西欧や中国で行われたような弾圧事件と比べて、安政の大獄は「大獄」と呼ぶほどのものなのかどうか、微妙なところだと言えるでしょう。
新政府による印象操作説
ではなぜ、この一斉処分事件は「大獄」という強い言葉で表現されるようになったのでしょうか。
考えられるのは、処罰対象者の人数はともかく、全国規模の摘発だったことから「大規模な弾圧」というイメージが定着したことです。また、新政府による印象操作が行われた可能性も捨て切れません。
国の統治者が入れかわった際、新しい統治者が、旧い体制について悪いイメージを植え付けて、自分たちの正当性をアピールしようとするのは世界的に見ても珍しくありません。明治政府もまた、「幕府=悪」のイメージを植え付けるために、討幕を正当化する歴史解釈や価値観を、教育などを通して人々に植え付けていった可能性があります。
安政の大獄では吉田松陰も処刑されているので、明治政府のうち長州藩出身の者は、特に井伊直弼に対して恨みを持っていたかも知れません。
参考資料
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
トップ画像:「井伊直弼像」 狩野永岳筆 彦根城博物館蔵(Wikipediaより)