悪名高い「不平等条約」はまだマシな方だった?実はアメリカも手を焼いた徳川幕府の粘り強い交渉:2ページ目
ハリスの苦労
もともと、日米通商修好条約は、アメリカ総領事館のハリスと岩瀬忠震(いわせただなり)・井上清直との間で始まっています。当時の日本側の記録によると、ハリスは外国人の自由旅行を求めたのに対し、幕府側は攘夷の危険性を訴えて、行動範囲を開港地周辺へと限定させたりしています。
これにより、外交官以外の在留アメリカ人は、居留地以外での行動を制限されました。よってアメリカ人の商人は満足のいく活動ができなかったのです。
他にも、日本側は居留地の建築物を検分する権利が与えられましたし、アメリカが日本と諸外国の外交問題に仲介することが規定されるなど、日本側に配慮した取り決めがなされました。また関税も基本的には5%と決められましたが、品物によっては35%もOKとされています。
ここまで決まるまでの間、条約の草案は修正に修正を重ね、問題なく同意されたのは前文のみというありさまでした。
ハリスも「自分は条約締結に功績がある」と日記に記していますが、実際には彼自身も「日本からは、条約の草案が真っ黒になるほど訂正させられた」と話しており、対日交渉は想像以上に苦労したことが伺えます。