日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【後編】:2ページ目
第一次護憲運動による暴動
第三次桂内閣が成立した流れは、桂にとっては悲劇的だったと言えます。もともと彼は「山縣寄り」の人間と見なされていましたし、宮中で内大臣兼侍従長に任ぜられた桂が、第二次内閣退陣から四カ月そこそこで首相になるのは「宮中・府中の別」のルールを乱すとして非難され、第一次憲政擁護運動が起きたのです。
宮中・府中の別とは1885年に確立した暗黙のルールに近いもので、一度宮中に入った人間は政治家として政府内で仕事をしてはいけない、というものです。
これに反するのは憲法違反だとして、対立関係にあった議員は藩閥政治と陸軍を批判するようになりました。「政府は憲法を護れ」ということで、この動きは護憲運動と呼ばれたのです。
民衆の怒りも爆発し、政府系新聞社や警察署も襲撃を受け、鎮圧のために軍が出動する事態に発展しました。
やむなく第三次桂内閣は1913年に退陣し、「民衆が内閣を倒した」日本史上初めての例となりました。