中世最後の国人一揆!豊臣秀吉による朝鮮出兵への反発で起こった『梅北一揆』の首謀者と一揆後の影響:2ページ目
梅北一揆の概要
梅北一揆は、文禄元年(1592)6月15日、国兼が出陣するための船を肥後葦北郡佐敷(さしき)で待っていたことが発端で起こりました。
この時、佐敷城の城代の加藤重次(加藤清正の家臣)は朝鮮半島に出陣していたこともあり、手数となった佐敷城を奪取。
国兼は、義兄弟の田尻但馬(たじり-たじま)や島津氏の家臣である東郷甚右衛門、新納旅庵(にいろ-りょあん)などの武将たちと農民や町民を味方につけ、約2000人の軍勢を率いました。
そして16日、田尻但馬に小西行長が治める麦島城の攻略を命じ、自身は新たな味方を募りました。
しかし、共闘を約束した武将たちは一揆鎮圧側に回ると共に、佐敷城留守居の策略によって、17日に国兼が討ち取られたことで一揆が鎮圧します。
ちなみに、その策略とは女性たちに陣中見舞いと称してお酒を持たせ、酔った隙をついたというものです。
こうして、梅北一揆は3日で収束しました。しかし、近年の研究で一揆は15日間に及んだとする説も出てきています。
一揆後の影響
梅北一揆鎮圧後、国兼の首は肥前名護屋城に届けられ、胴体は佐敷五本松に埋められました。
国兼の妻も名護屋城に連行され、生きたまま火あぶりに処されました。梅北夫妻の他に一揆に参加した者たちも磔刑に処されています。
一揆の影響は主家の島津氏にも及び、国兼を家来としていた島津歳久が一揆の黒幕として追討対象となり、討ち取られました。
また、文禄の役出陣が大幅に遅れ、島津義弘が「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態に繋がりました。
この遅陣は豊臣政権の不信を招いてしまい、細川忠興と浅野長政が徹底した検地を実施する事態になってしまうほどです。
しかし、この検地によって権力強化に繋がり、慶長の役で挙げた功績で名誉を回復する結果となりました。