「軍艦で攻めるぞ!」脅しにもケロッとしてペリー提督とやり合った、徳川幕府の交渉力:2ページ目
儒家VSアメリカ軍人
ペリーは幕府に対してアメリカ大統領の国書を提出しました。これを受けて、当時の老中・阿部正弘は、次の来航に備えて交渉人の選抜を進めます。ここで選ばれたのが林大学頭(林復斎)という儒家の学者でした。
この人物は、歴史上の知名度はあまり高くありませんが、ここで素晴らしい実績を残すことになります。
1854年3月、ペリーと幕府の交渉が始まりました。この時、まず幕府は、アメリカが求めている漂着民の保護と物資補給には応じました。しかし交易は拒否します。するとペリーがこう恫喝しました。
「アメリカは人命第一だが、日本は船を無差別に攻撃して漂着民も罪人同然に扱っている。態度を改めないなら100隻の軍艦で攻撃するぞ」。
これに対して林は、日本は200年以上平和が続く人命尊重の国であること、異国船打払令は廃止し、漂流民も穏便に送還していることを説明。続けて「人命第一と言いながら、どうして無関係の交易の話をするのか。そもそも日本は外国の品物を必要としていない(意訳)」と反論しました。
こうした交渉を経て、アメリカは逆に交易要求を撤回させられてしまいます。そして、五港の開港要求については、前年に受け取った書簡に地名が指定されていないことから、下田と箱館の二港だけに限られることになりました。
林は恫喝に委縮することなく、ペリーの言い分の矛盾と隙をついて、日本にとってできるだけ有利になるように交渉を進めたのです。