「軍艦で攻めるぞ!」脅しにもケロッとしてペリー提督とやり合った、徳川幕府の交渉力
「砲艦外交」にどう対処するか
1853年に、いわゆる「黒船」とペリーが来航し、武力によって開港を迫られたことで、江戸幕府は準備不足だったため押しに負けて仕方なく開国した……という見方が、今までの日本史では一般的なものでした。
しかし、実際には江戸幕府は情報収集と西欧諸国との交渉の準備を着々と進めていました。当時、日本海域には多くの外国船が出没しており、これらの国に対して開国することになる日も近いだろう、と幕府の重臣たちも考えていたのです。
鎖国によって海外諸国との関係が断絶していたと考えられている江戸時代も、実は「知られざる国際関係史」が存在するのです。
では、かのペリーが来航した際は、どのような経緯をたどって開港へと至ったのでしょうか。
まず最初に押さえておきたいのは、当時、いわゆる列強が途上国に対して使った主な外交手段は砲艦外交だったということです。これは武力・威力を盾にして相手を恫喝し脅すというやり方で、要するに強迫です。
ペリーたちもまた、この砲艦外交でもって日本に開国要求を行いました。しかし意外なほど強気な幕府の姿勢に、むしろペリーたちは翻弄されることになります。