実は対立関係だった2人…松平信康が自害に追い込まれたのは親子間の不仲が原因だった?!【どうする家康】:2ページ目
信康切腹事件が起こった原因
そんな信康は天正7年(1579)ごろになると、家康の命令も聞かず、信長も軽視し、家臣にも意見が違うと厳しく当たるようになったと『当代記』には記録されています。
家康は信康の様子から謀反を起こそうとしていると勘繰り、このことを相談するために酒井忠次を織田信長の元に派遣しました。
信康の父に対する傍若無人な態度が2人の対立を決定的なものにし、信康切腹事件に至ったと考えられます。また、信康を支持した岡崎衆が2人の対立に際し、信康を担ぎ上げて謀反を起こそうと画策したとも考えられています。
そのため、家康は岡崎衆に信康の味方にならないことを誓わせる起請文を書かせたり、岡崎衆と信康の連絡を絶つために、家康自らの旗本衆で岡崎城を固めたりと謀反に対する強固な構えを見せました。
親子不仲説が有力となった理由
そして、信康切腹事件が親子の不仲が原因で起こったと言われているのが『当代記』や『安土物語』にある「信康のことは家康の思い通りにせよ」と信長が言ったことにあります。
信長は家康に信康を殺すことを命令していないのに関わらず、信康を自害に追い込んでいるので、家康の意思で信康を殺したことがうかがえます。
その決断を下した理由として、父や信長を軽視する態度を崩さなかったこと。岡崎衆を率いて謀反を起こそうとしたことが考えられます。