渦中の城を守った武将!!「長篠の戦い」の発端となった長篠城を守備した奥平信昌の生涯を紹介【どうする家康】:2ページ目
勃発!!長篠の戦い
天正3年(1575)、勝頼は遠江と三河を奪うべく侵攻を開始。信昌が城主を務める、対武田の最前線・長篠城を包囲しました。この時、勝頼は1万5000を率いたのに対し、城を守る兵士は500人と寡兵でした。
それでも周囲を谷川に囲まれた地形や200丁の火縄銃のおかげで持ちこたえていましたが、兵糧庫を焼かれたことで危機的状況に陥ります。
事態を重く見た信昌は、援軍要請の使者として自ら志願した鳥居強右衛門を家康の元へ派遣。強右衛門のおかげで奮戦できた信昌たちは、織田・徳川連合軍が救援に来るまでなんとか持ちこたえました。
長篠の戦いに勝利した信昌は、戦いぶりを称賛された信長から「信」の一字を貰い、貞昌から「信昌」に改名します。また、家康からは名刀・大般若長光を授かりました。
軍制改革や恵瓊捕縛といった活躍を見せた
その後の信昌は天正13年(1585年)に石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔したことで、流出した徳川家の軍制から武田信玄の軍制へと変更する軍制改革の際に、武田家に臣従した過去を活かし、この軍制改革に貢献する活躍をみせました。
さらには、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に京都の治安維持を務める京都所司代に任命されます。そして、京都に潜伏していた安国寺恵瓊を捕縛する活躍も残しました。
上記の活躍を残し、家康に多大な貢献と忠義を見せた信昌は、慶長20年(1620)に病死しました。
最後に
今川、武田、徳川と主君を変えながら渡り歩いた奥平氏。信昌の祖父は三河国作手の有力国人であり、それほど三河国やその周辺が不安定だったことがうかがえます。また、亀姫と婚姻したということは、奥平氏が対武田にとって重要な人物たちだったこともわかります。
ただ、その途中でおふうを死なせてしまったことは、信昌にとって後悔の念が残ったかもしれません。
トップ画像 右: 大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより