もう「姫若子」とは呼ばせない!初陣で覚醒した戦国大名・長宗我部元親の武勇伝
戦国時代、四国の覇者として武名を轟かせた長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)。四国の大半を掌握するほどの人物ですから、幼少時からさぞ聡明であったろうと思ったら意外や意外。
聡明どころかうすらぼんやりとして、満足に挨拶もできず引き籠ってしまうほど軟弱者だったと言います。
あまりの頼りなさに、人々は元親を「姫若子(ひめわご。姫のような若者)」と呼んだとか。
こんな事で、戦国乱世を生き抜いて行けるのか。父の長宗我部国親(くにちか)は我が子の将来を危ぶむのでした……。
戦場で槍の稽古を始め……まさか過ぎる展開
そんな「姫若子」長宗我部元親の初陣は永禄3年(1560年)5月28日、土佐の国人・本山茂辰(もとやま しげとき)との合戦です。
時に元親は18歳。当時の若者は早ければ13歳、遅くとも15~17歳までには初陣を果たすのが通例でしたから、元親の初陣はかなり遅めでした(諸説あり、22~23歳で初陣とも)。
「あんな様子では、すぐに討死しかねん。とても連れて行けたものではない」
と心配されたためでしょうか……果たして戦場へやって来ても、元親は独り遠く離れた場所で、ぼんやり景色を眺める始末。
ダメだこりゃ。……みんなが呆れ返る中、見るに見かねた秦泉寺豊後(じんぜんじ ぶんご)なる家臣が声をかけます。
「若殿。いかがなされた。まったく沙汰の限りにございますな(若殿ハ何トしテ御越候哉沙汰ノ限ニテ候)」
豊後の声に気づいた元親が答えて曰く、
「武士の本分たる戦さで死ぬことは是非もなく、父の為ならば敵と相討ちになることも辞さぬ。ただ、槍の使い方が分からんでのぅ……教えてくれぬか(又一念ニ掛けタル戦場ニ頓死スル條不及是非元親父ノ爲教養敵ト死ヲ共ニセン維然末鑓ノ突様ヲ不知教玉へ)」
……とのこと。それで遠くから見学していたという次第……まったく、戦に来ると分かっているのだから、とっくに予習くらいしておきなさい!
何なら槍なんて手に持ってみれば、突くなり叩くなり思い着くであろうが、まったくとことん姫若子じゃ……とは思っても、事ここに及んでは仕方ありません。
さっそく秦泉寺豊後による即席武術マンツーマンレッスンが始まりました。
「若殿、よろしいか。まず両の手で槍を構えられたら、このように敵の目を突きなされ(敵ノ眼ヲ突給ヘ)」
「眼か……わかった。しかし、眼は小さいから外したらどうする?(眼ヲ突ハツス時ハ)」
「何も必ず眼に当てろとは申しませぬ。その辺りに向けて突けば、たいていどこかには刺さるという話しにございます(眼ヲ突心持ニテ突)」
よし分かった、えい!やあ!とう!……かくて暫しレッスンの後、それらしくなった元親は秦泉寺豊後に尋ねます。
「さて、豊後よ。大将というものは、真っ先に敵へ攻めかかるべきか、それとも後から行くものだろうか(偖大将ハ先へ懸ル哉後ニ行哉)」
「大将たる者は軽々しく前へ出ず、かつ敵を恐れて逃げることなきよう、どっしりと構えねばなりませぬ(大将ハ不懸不迯物也)」
「うむ。よう解ったぞ!」
……これが元親18歳の初陣、後世「永濱の合戦」と伝わる戦さでのエピソードでした。