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【幕末維新】天に達すか、尊皇攘夷の志。水戸天狗党の乱に散った志士・藤原天達

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いつか尊皇攘夷の志を果たすべく働き続けた清左ェ門は、源烈公(みなもとの れっこう)こと水戸藩・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の思想に感動しました。

「決起の条件が揃うのを待つより、行動してこそ条件がついて来るのだ!」

清左ェ門は商売をやめて竹林虎太郎(たけばやし とらたろう)と改名します。古来「龍は雲を呼び、虎は風を起こす」と言うように、激動の世に風を起こさんと意気込んだようです。

果たして元治元年(1864年)、水戸の過激派・天狗党が挙兵。後世に伝わる「天狗党の乱(元治甲子の乱、甲子の役)」が幕を開けました。

この時、虎太郎は軍師として200余騎を率いたと言いますから、周囲から一軍の指揮を認められるだけの実力(人望、知略など)を備えていたのでしょう。

しかし3月から12月まで長きにわたる激戦の中、那珂湊(茨城県ひたちなか市)の合戦に敗れた虎太郎は、勝機なしと見切って軍旗を首領の武田耕雲斎(たけだ こううんさい)に返上しました。

そして紅葉鮮やかな10月某日、高台寺で切腹して果てたということです。

終わりに

【竹林虎太郎こと藤原天達 略年表】

天保2年(1831年)誕生? 天保14年(1843年)誕生?

幼名は卯之助、元服して藤原天達と改名(通称は清左ェ門)。

活動資金を貯めるため、江戸に出て商家となる

徳川斉昭の思想に感激、竹林虎太郎と改名して天狗党に身を投じる

元治元年(1864年)天狗党の乱
3月、挙兵(軍師として兵200騎を率いる)
8月、那珂湊の合戦に敗れ軍師を辞する
10月、高台寺で切腹(享年34歳?22歳?)

以上、藤原天達の生涯を駆け足でたどってきました。まさに天まで駆け上る勢いで生き急いだ日々でした。

激動の幕末、敵味方に別れたとは言え、思いはみんな「日本を守りたい」一心だったはず。

日本人同士が殺し合わねばならなかった悲しい時代を乗り越え、一つにまとまった現代日本。志士たちの思いを、次世代へと受け継いで行きたいですね。

※参考文献:

 

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