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心中して生き残っても「死刑」又は「晒し刑」…厳しい処罰が科せられた江戸時代の心中事情

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幕府による心中ものの禁止

1722年(享保7年)には、幕府によって心中をテーマにした狂言・絵草紙を禁止しています。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗のときでした。

幕府はまた、「心中」という漢字が「忠」につながるという理由から、「心中」という言葉を使うことを禁止。代わりに「相対死(あいたいじに)」と呼んでいました。

「相対死」には厳しい処罰が

「相対死」は不義密通の罪として、厳しい罰が処せられました。一人が生き残った場合は死刑、二人とも生き残った場合は晒し刑ののち、士農工商から外れる身分になったと言われています。

幕府がこのように心中を取り締まったり、厳しい処罰を与えたのは、心中が江戸幕府批判(「(幕府が治める)この世を嫌い、恨みを抱いて死ぬ=幕府批判」)につながるという考えからだったそうです。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです!

 

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