「鬼」と呼ばれた県令・三島通庸(みしま・みちつね)と自由民権運動の戦い:2ページ目
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増税と自由民権運動
明治15年、三島は福島県令に転任が決まります。
当時国内では、政治の中心が旧薩摩藩士や旧長州藩士で占められていることに不満を持つ人が少なくありませんでした。
そんな折に国会開設の話を聞いた板垣退助が自由党を結成し、自由民権運動が活発になっていきます。そして三島が転任した福島県議会は、この自由党員が多数を占めていました。
三島は福島に転任したあとも土木県令の名の通り、インフラ整備のための土木工事に取りかかりました。しかしその分工事費が嵩んでしまい、その負担は福島県民が負うことになってしまいます。
この、インフラ整備による地方税の負担は2.5倍増だったとも言われています。
そんな三島の政治を批判したのが福島県議会の自由党員たちでした。
土木工事を押し進めたい三島は自由党員と対立し、自由民権運動を弾圧していきます。これがのちに「鬼県令」や「鬼の三島」と称される原因になった福島事件です。
さらに自由党員の過激派によって通庸の暗殺計画が立てられました。この事件を加波山事件といい、暗殺に使用される予定だった爆弾が誤爆したことによって三島の命は無事でしたが、さらに波乱を巻き起こします。
これらの事件が政府の耳に入ると、自由党員は次々に逮捕されました。三島に対する攻撃は、当時、政府にとって厄介だった自由党員の動きを抑える良い口実になったのです。
三島はその後栃木県令や内務省土木局長、警視総監などの要職を務め、54歳で亡くなりました。
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