100年も戦国大名を脅かした「一向一揆」はなぜ、どのように勢力を増していったのか【前編】:2ページ目
加賀一向一揆の勃発
では、加賀一向一揆はどのような経緯で起きたのでしょうか。
本願寺が京都の東山に建立されたのは13世紀後半のことでしたが、1465年に、比叡山延暦寺との抗争が原因で一度破壊されています。
この時、八代目の法主だった蓮如は、三河や越前吉崎に逃れて、逃れた先で布教の場を切り拓いてきました。
畿内地方に戻った彼は、大阪本願寺を建立するのですが、それとは別に北陸では浄土真宗の信者の人々が、やはり活発な動きを見せるようになります。
このような経緯もあって、浄土真宗の普及とそこから一揆へと発展していく流れは、各地に飛び火するように広まっていきました。
こうなると、地域の領主たちも放ってはおけません。当時の加賀の守護である富樫政親は弾圧に乗り出しますが、反発した一向宗は、逆に政親の城を攻めて自害にまで追い込んでしまいます。
これが、名高い加賀一向一揆です。守護大名がいなくなり、加賀はその後約100年もの間、百姓の持ちたる国とまで呼ばれるようになります。
この一揆がようやく鎮圧されたのは1580年のことで、それを果たしたのが織田信長でした。