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鎌倉幕府三代執権・北条泰時の菩提寺の裏「粟船山」に伝わる悲しい伝説

鎌倉幕府三代執権・北条泰時の菩提寺の裏「粟船山」に伝わる悲しい伝説

義高は必死に逃亡しましたが、武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄によって討たれた。享年12歳と伝えられています。

水戸藩主・徳川光圀によって編纂された『新編鎌倉志』には、常楽寺図が記されていますが、そこにも“木曽塚”が描かれています。

鎌倉での首実検の後ここに葬られ、江戸時代に村人が塚を掘り出して今の所に移したようです。塚の中に青磁の瓶があって枯れた骨が泥に交っていたのを洗い清めて塚を立てたといわれています。

塚に向かう道中には、北条泰時の娘で、三浦泰平の妻の宮姫のものといわれる石の祠もあります。

建長寺が建てられると、住持は常楽寺の住職も兼ねることになり、「常楽は建長の根本なり」として、篤く取り扱われました。

静かでこぢんまりとした寺院の境内には、人の世の悲しみが込められた壮大なドラマが、今も眠っているのです。

 

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