京都大学の歴史をたどる…名門大学はどのようにできていったのか【前編】:2ページ目
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各学部の創設と校風の醸成
創設時の計画では翌明治31(1898)年に法科大学から設置する予定でしたが、工科志望者が急増したため、創設と同年の明治30(1897)年に京都帝国大学理工科大学が設置されました。創立当初の学生数は47名、教官数は9名でした。
続いて明治32(1899)年には法科大学および医科大学が設置され、さらに附属図書館では海外から図書を購入したり寄贈の依頼などを行ったりした結果、開館時には和洋合わせて5万冊以上の蔵書数となっていたそうです。
図書館では、学生にも書庫内の検索や書籍の貸出を許可するなど、当時としては開かれた制度が導入されました。
明治39(1906)年には文科大学が設置されました。
当時の総長の意向もあって、ドイツの大学のシステムに倣い「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用、この方針が現在の「自由の学風」に影響を与えたといわれています。
大正8(1919)年に分科大学制が学部制に変わり、経済学部が法学部から分離して独立の学部となりました。また、大正12(1923)年には農学部も設置されます。
この年には本部構内に「時計台」と称され京都大学のシンボル的な建物である本部本館が竣工しました。
後編では、思想関係の締め付けが厳しくなる昭和初期から、戦後までの歴史をたどります。
参考資料
京都大学社会科学研究会ピース・ナビ
京都大学の歴史
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