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幕末期に暗殺された土佐藩の重鎮・吉田東洋はどんな人?その人となり・実績に迫る【前編】

幕末期に暗殺された土佐藩の重鎮・吉田東洋はどんな人?その人となり・実績に迫る【前編】:2ページ目

突然の無役に

彼は郡奉行だった頃、土佐藩の民政や藩政改革に参与し、飢饉に備えて年貢米を備蓄しておく蔵屋敷「済農倉」の設立を進言するなどしています。

ところが、1848年に藩主・豊煕が34歳の若さで死去すると突然郡奉行を辞めさせられ、いきなり無役となってしまいます。

東洋は土佐を離れ、嘉永4(1851)年には近畿地方(上方)を遊歴し、伊勢国の漢学者・斎藤拙堂や京都の梁川星巌や頼三樹三郎らと交流を深めたりしていました。

また、この頃義理の甥である後藤象二郎の父が病死したため、象二郎を引き取って父親代わりに養育することになります。

さて嘉永6(1853)年、アメリカのペリーが浦賀に来航し日本に開国を求めると、幕府は諸大名や有識者に意見を求め、土佐藩にも意見書提出の要請が届きました。

この非常事態に際し有能な人材の必要性を感じた15代藩主・山内豊信(容堂)は、保守派による藩政を抑えて改革したいと考え、東洋を仕置役(参政職)に抜擢します。

東洋は富国強兵論などを主張し、当時西洋から伝わっていた近代式の武器や軍隊の育成、海軍の強化による海防強化、そして土佐藩の身分制度改革などの藩政改革を主導していきます。

今度は隠居に

順調に藩政改革を進めていた東洋ですが、安政3年(1855年)3月、参勤交代に伴って江戸で大きな事件を起こしてしまいます。

江戸へ行った東洋は、藤田東湖など著名な知識人らと親交を結びますが、酒宴の席で山内家の姻戚である旗本・松下嘉兵衛殴打する事件を起こしてしまい罷免され、家禄を150石に減らされた上に帰郷して隠居を余儀なくされてしまいます。

仕事を失ってしまった東洋は、高知郊外に私塾(少林塾・鶴田塾)を開き、人材の育成に尽力するようになります。

義理の甥であり養子でもある後藤象二郎を始め、乾退助(後の板垣退助)福岡孝弟岩崎弥太郎(後の三菱財閥の創始者)など、若手藩士は東洋から学びました。東洋から学んだ彼らは「新おこぜ組」と称される改革派の一大勢力として、幕末期の土佐藩で大きな影響力を持つことになります。

(後編に続きます)

 

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