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いつ誰が考えた?小野小町はいかにして「世界三大美人」の一人となったか。その経緯を追う【前編】

いつ誰が考えた?小野小町はいかにして「世界三大美人」の一人となったか。その経緯を追う【前編】

平安時代の美人の基準は?

まず、男性女性に限らず「風貌の美しさ」の基準は時代によって違う、という点が大きなポイントです。

小野小町は男性を魅了する魅力があったとされていますが、一方で平安時代は強い個性がない顔の方が美しい、と考えられていました。

当時は、顔の美醜は仏教的な因果応報思想と密接な関係にありました。例えば極端な例としては病気などで顔が変形している場合などは、それは前世の報いであると考えられていたのです。

当時の「美人」の見方もこうした考え方と無関係ではありませんでした。強い個性がある顔よりも、没個性的で取り立てて特徴のない顔の方が美しいとされていたのです。

この点、現代とは正反対ですね。現代の女性のいわゆる美しい顔立ちというのは、メイクによって顔のパーツを際立たせることで成立します。

が、平安時代はその反対でした。当時の絵巻物などを見ても、女性たちの顔が一様に地味で見分けがつかないのも、こうした点に由来します。

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「見られる」ことが前提の美しさ

現代のような、「目を引く」タイプの美人顔が持てはやされるようになったのは、近代以降に西欧文化の影響を受けてからです。

また大正時代以降、メディアの発達によって女性の顔写真などが広まるようになり、「見られる」ことを前提とした美しさが重視されるようになったのも大きいでしょう。

平安時代であれば、女性の顔は家族にしか見せないのが当たり前でした。近代以降、女性の顔を見るまなざしと、見られることを前提とした顔立ちの双方が日本文化の中に登場したということです。

楊貴妃はともかく、クレオパトラという女性が美人の代名詞として見なされるようになったのも、この頃でした。

つまり、小野小町が「美しい」女性だと言われていた平安時代と、近代以降に彼女が「美しい」と言われるようになった近代以降とでは、見る側の感性も全く違っていたということです。

平安時代と今の美人の基準は違うとひと言で言ってしまえば簡単なのですが、その基準にも歴史的な経緯があるんですね。

【後編】では、やや哲学的な話も絡めながらさらに解説していきます。

参考資料
東大発オンラインメディアumeeT

 

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