いつ誰が考えた?小野小町はいかにして「世界三大美人」の一人となったか。その経緯を追う【前編】
小野小町はなぜ「世界三大美人」の一人なのか
日本史で「美人」の代名詞と言えば小野小町で、彼女は「世界三大美女」の一人と言われています。しかしこの世界三大美女というカテゴリーは、いつ誰が考えたものなのでしょうか。
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世界三大美女と言えば、クレオパトラ・楊貴妃(ようきひ)・小野小町です。このうち楊貴妃は、平安時代にはすでに漢詩を手がかりに、とてつもない美女だったということが知られていたので何となく理解できます。
また、【後編】で後述しますが、クレオパトラは大正時代の映画がきっかけで有名になりました。
そして小野小町が加わるのですが、実は歴史記録を紐解いてみても、小野小町が美人だったとはっきり書いてある史料は存在しません。文献でも絵画でもそうしたものはないのです。
そもそも、平安時代の貴族の女性は、基本的に顔をむやみに他人に見せないものでしたし、顔を前面に押し出した描写ははしたないものと思われていたので、記録に残りにくいのも当然でした。
改めて、それではなぜ小野小町は世界三大美女のひとりに加えられたのでしょうか。また、この三大美女の中にはなぜヨーロッパ圏の女性は入っていないのでしょうか。実はこの二つの疑問の答えは、深いところで結びついています。
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