打ち砕かれた松岡洋右の希望…有名なスローガン「満蒙(満州)は日本の生命線」の真意:2ページ目
松岡洋右「ぼくの満州を守って」
この頃、満州の財源とも言える南満州鉄道は赤字続きで経営も苦しくなっていました。
日本国内でも、満州はやや「お荷物」的な扱いでした。南満州鉄道は経営が苦しいし、あまり満州にこだわれば蒋介石との関係が悪化するかも知れません。
こうして満州の優先順位は低くなり、露骨に「見捨てる」という状況に近くなっていきます。
しかし当地では多くの日本人が働いています。彼らは皆、日本の発展のためにと送り込まれた人々でした。満州鉄道の関係者や、日本人の護衛のために送り込まれていた関東軍は不安だったことでしょう。
こうした状況の中で、1931(昭和6)年1月の帝国議会で「満蒙は日本の生命線」というスローガンを掲げて演説したのが、当時の野党である政友会の議員、松岡洋右(まつおか・ようすけ)でした。
この演説はとても長いので引用はできませんが、彼はかつて元満州鉄道の副総裁を務めたこともあり、このようなキャッチーなフレーズによって、再び人々の目を満州に向けさせたのです。
このスローガンは人々の間で広まり、「~は生命線」という流行語も生まれています。
しかし間もなく、満州事変の引き金とも言える柳条湖事件が、現地の関東軍によって引き起こされました。
この大まかな流れだけを見ると、あたかも松岡と関東軍は思想的に共鳴しており、植民地としての満州を死守しようとしたかのように思われますね。
しかし、実は全く違います。むしろ両者は無関係で、松岡は柳条湖事件による「被害者」でもありました。
無に帰した松岡の希望
松岡が目論んだのは、満州の経済活動を活発なものにして、まずは満州鉄道の経営状態を回復させることでした。そして、ゆくゆくは日本の経済にも還元するというビジョンを持っていたのです。
そのために、国防面での重要性をリンクさせて「満蒙は日本の生命線」と述べたのでした。
一方、当時は世界的に「軍縮」がトレンドだったこともあり、満州に駐屯していた関東軍は、松岡とは全く違う意味で焦っていました。
軍縮が進めば、軍に対する予算も削減され、人員も減らされます。そうなれば軍人たちは食いっぱぐれますし、その上日本は満州をも見捨てようとしている。
ならば自分たちは自分たちで行動を起こそうと、一か八かの賭けに出たのが柳条湖事件、ひいては満州事変だったのです。
その後の経緯は割愛しますが、関東軍の動きを日本政府が追認する形になり、日本政府と満州、そして日本政府と蒋介石の関係も悪化していきました。
こうして、満州が経済的恩恵を受ける道筋は絶たれました。
こうして見ると、松岡が「被害者」だったというのが分かると思います。彼は満州事変のような事件を起こして、侵略を進めていこうとは考えていませんでした。
あくまでも、日本と中国が経済関係を重要視するのなら、満州も利益を得られるように「仲間に入れて欲しい」という考えだったのです。
実際、彼は満州事変の知らせを聞いてがっかりし、自著でも「私の努力は無に帰した」と書いています。
どうも松岡洋右という人物はツキがなく、日本史上の重要なポイントで必ず名前が出てくるにもかかわらず、誤解されて悪役扱いされて語り継がれてきた感があります。
国際連盟脱退の際のエピソードなど最たるもので、そろそろこうした世間の誤解も解いてやりたいところです。
国際連盟脱退も、実は日本は「孤立」していなかった!?松岡洋右「堂々退場」の本当の理由とは
参考資料
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』SB新書、2016年