風魔小太郎とは何者だったのか?北条家に仕えた謎の集団「風魔忍軍」の活躍とその末路:2ページ目
風魔一族とは何だったのか
さて、そんな風魔一族の出自をめぐっては、いくつかの説があります。
この時代の日本人の平均身長は160センチル弱程度でした。それと比較すると、いくらなんでも五代目風魔小太郎の身長は破格すぎます。
このような日本人離れした身長や卓越した騎馬技術などから、風魔一族は外国からやってきた騎馬民族だったのではないか、とする説があります。
またスパイ活動を得意としていた点や、「風魔」という名前などから、北条家の家臣で、諜報や警備を担当していた風間出羽守(かざまでわのもり)という人物がその正体ではないかという推測もあります。
いずれにせよ確かな証拠はどこにもないことから、今のところその正体は不明です。
また記録の中には、風魔一族の正体は盗賊や山賊のようなものだとするものもあります。実際、彼らは闇に乗じて窃盗をはたらく夜襲を得意としていました。
さらに、北条氏直は領内の人々に向けて「風魔小太郎が狼藉を働いた場合は小田原城へ訴えるように」という内容の書簡を配ったとされています。
もしかすると、風魔一族というのは、北条氏公認の盗賊だったのかも知れません。漫画『ワンピース』に出てくる王下七武海を連想しますね。
活躍と滅亡
さて、風魔小太郎の活躍ぶりがよく知られているのが、北条家が武田勝頼と争った「黄瀬川の戦い」です。
この戦いで風魔忍軍は、川の対岸で陣を張る武田方に対して、闇夜に乗じて襲撃をかけます。
この夜襲では、武田方の兵士が生け捕りにされたり、縄で繋がれていた軍馬が放たれたりしました。さらに放火まで行われ、混乱する中で風魔忍軍は兵糧の略奪も行っています。
なんだか、ざっくりした内容だけ見ると、「戦(いくさ)」というよりも「嫌がらせ」という感じですね。もしかすると風魔忍軍にとってはとても楽しいミッションだったのではないか……と想像するのは私だけでしょうか。
これで大きな損害をこうむった武田軍は、一戦も交えることなく撤退を余儀なくされました。
さて、元来、忍びの一族といえば、大名からの依頼を受けて仕事を請け負うというスタイルが主です。風魔一族のように、代々に渡って特定の主君に伝えるのはかなり珍しいケースと言えるでしょう。
しかしこの場合、主君が滅びれば、仕えていた一族も運命を共にすることになります。実際、風魔一族もそのような末路を辿りました。
1950年、小田原合戦で豊臣秀吉に敗北したことで、北条家は滅亡します。その後、風魔小太郎とその一族は、野盗を生業とするようになりました。
しかし江戸時代になると、幕府により野党の取り締まりも厳しくなり、風魔一族には懸賞金がかけられます。
その結果、別の野盗から密告され、風魔小太郎は1613年に捕まり処刑されました。