チンドン屋って知ってる?江戸時代に始まり今も再評価が進む貴重な商業文化:2ページ目
明治時代~昭和初期のチンドン屋
明治中期には広目屋の宣伝方法が大阪に伝わり、東西屋も楽隊を取り入れるようになりました。
サンドイッチマンと呼ばれる、大きな広告を体の前後に背負って街を歩く宣伝方法も、この頃に本格的に登場しています。このような状況の中、東西屋と広目屋は全盛期を迎えました。
しかし1907年頃になると活動写真がブームになり、宣伝広告は写真を使った新聞が主流になります。路上広告は一気に下火になってしまいました。
都市部での仕事を失った東西屋と広目屋は地方に行き、鉦と太鼓を鳴らしながら4~5人の編成で町を回る行商を行うようになります。
少人数でも充分な音色を出せるよう、鉦と締め太鼓、平胴太鼓が一つになった太鼓のセットが考案されました。
これがのちに「ちんどん太鼓」と呼ばれるようになります。「チンドン」という名称の由来は、この「チンチン」と鳴る鉦の音と「ドンドン」という太鼓の音からきています。
この頃から徐々に東西屋と広目屋は「チンドン屋」と呼ばれるようになり、昭和初期には知名度も高まりました。
現在も、チンドン屋のことを「披露目屋」「広目屋」「東西屋」と呼ぶ地域があるようです。