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「鎌倉殿の13人」ついに阿野全成の最期か…第30回放送「全成の確率」予習

「鎌倉殿の13人」ついに阿野全成の最期か…第30回放送「全成の確率」予習:3ページ目

相次ぐ怪異、とうとう頼家に天罰が下る

「あ……ハトが!」

全成を殺してからと言うもの、鎌倉の鶴岡八幡宮では異変が相次いだと言います。

辰尅。鶴岳若宮寳殿棟上。唐鳩一羽居。頃之頓落地死畢。人奇之。

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)6月30日条

【意訳】午前8:00ごろ、神殿の屋根にとまっていたキジバトが転げ落ちて死んだ。人々はこれを凶兆として恐れた。

未尅。鶴岳八幡宮。自經所与下廻廊造合之上。鴿三喰合落地。一羽死。

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)7月4日条

【意訳】午後2:00ごろ、神殿の屋根で三羽のハトが食い殺し合い、みな転げ落ちて一羽が死んだ。

辰刻。同宮寺閼伽棚下。鳩一羽頭切而死。此事無先規之由。供僧等驚申之。

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)7月9日条

【意訳】午前8:00ごろ、境内にハトの生首が転がっているのが発見された。僧侶たちは驚いた。

ハトと言えば源氏の氏神様である八幡大菩薩のお使い。それがこう相次いで怪死を遂げていくと、源氏の行く末も危ぶまれてしまいます。

しかし、頼家は何ら気にせず、行いを悔い改めることなく蹴鞠に興じていました。

御所御鞠也〔今日以後無此御會〕。北條五郎時房。紀内行景。冨部五郎。比企弥四郎。肥田八郎。源性。義印等參。

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)7月18日条

【意訳】頼家は蹴鞠に興じる(この日以降、蹴鞠が途絶える)。当日は北条五郎時房(演:瀬戸康史)・紀内所行景(きの うちどころゆきかげ)・冨部五郎(とみべ ごろう)・比企弥四郎時員肥多八郎宗直(ひだ はちろうむねただ)・大輔房源性(だいゆうぼう げんしょう)・加賀房義印(かがのぼう ぎいん)らが参加した。

……そんな態度が神仏の怒りに触れてしまったのか、7月20日に頼家は急病に倒れてしまいます。

晴。戌尅。將軍家俄以御病惱。御心神辛苦。非直也事云々。

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)7月20日条

「ただちに祈祷をせよ!」

果たして祈祷を行ない、病因を占った結果、やはり神仏の祟りでした。

御病惱既危急之間。被始行數ケ御祈祷等。而卜筮之所告。靈神之崇云々。

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)7月23日条

これも罪なき叔父を殺した罰か……果たして頼家が後悔したかどうだか、せめて頼全の命だけでも赦してやれば功徳にもなろうに、7月30日に京都より使者が到着。

「申し上げます。法橋禅師(全成)が子息の播磨公(頼全)、さる7月16日に討ち果たしてございます」

相摸權守使者自京都到着。申云。去十六日。催遣在京御家人等。於東山延年寺。窺播磨公頼全〔全成法橋息〕令誅戮之云々。

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)7月30日条

【意訳】源仲章の使者が鎌倉に到着。さる7月16日に東山延年寺で修行していた播磨公頼全を粛清したとの報告を受ける。

……間に合いませんでした。

4ページ目 まとめ・阿野全成父子の最期

 

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