「鎌倉殿の13人」ついに阿野全成の最期か…第30回放送「全成の確率」予習:2ページ目
頼家と比企能員、北条派の切り崩しを図る
子剋。阿野法橋全成〔幕下將軍御舎弟〕依有謀叛之聞。被召籠御所中。武田五郎信光生虜之。即被預于宇都宮四郎兵衛尉云々。
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)5月19日条
真夜中ごろ、謀叛の容疑があるとして阿野全成が武田五郎信光(たけだ ごろうのぶみつ)に捕らわれました。身柄は御所に一時拘束された後、間もなく宇都宮四郎兵衛尉(うつのみや しろうひょうゑのじょう。塩谷朝業か)の元へ預けられます。
かつて源頼朝(演:大泉洋)の挙兵に参加してから、ほとんど何の活動も記録されていない全成が、なぜ捕らわれたのでしょうか。
考えられるのは、全成が北条派であったから。頼家≒比企派は北条の勢いを削ぐべく全成を捕らえ、その妻である阿波局そして実家の北条家へ追及の手を伸ばしたかったものと見られます。
と言うわけで、頼家はさっそく阿波局を捕らえるべく、その身柄引き渡しを尼御台・政子(演:小池栄子)に要求しました。
將軍家以比企四郎。被申尼御臺所云。法橋全成。依企叛逆所生虜也。彼妾阿波局官仕殿内歟。早召給。有可尋問子細云々。如然事。不可令知女性歟。随而全成去二月比下向駿州之後。不通音信。更無所疑之由。被申御返事。不被出進之云々。
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)5月20日条
頼家の使者である比企弥四郎(演:成田瑛基)に対して、政子はこれを頑として拒否。
「謀反の企みなど、女子供の知ったところではありません。そもそも全成殿はこの2月からずっと駿河国阿野荘(現:静岡県沼津市)へ戻っており、何の連絡もとっていないのですから、何の疑いもありません!」
この政子の態度を「必死に妹を守った」と見るか、あるいは「全成を切り捨てた」と見るかはともかく、頼家の背後にいた比企能員(演:佐藤二朗)は舌打ちしたことでしょう。
「チッ、北条までは手を伸ばせなかったか……まぁよい。想定内だ」
果たして5日が過ぎた(この間に訊問≒拷問などが行われたことでしょう)5月25日、全成は常陸国(現:茨城県)へ流罪と決まります。
申尅。阿野法橋全成配常陸國。
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)5月25日条
このまま全成はひっそりと余生を送るのかと思いきや、約1か月が経った6月23日。頼家は八田知家(演:市原隼人)に命じて全成を処刑させました。
八田知家奉仰。於下野國。誅阿野法橋全成。
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)6月23日条
処刑に際して、知家は全成の身柄を下野国(現:栃木県)に移送していますが、その場でさっさと殺さなかったのは何か理由があったのでしょうか。
「よし。京都にいる頼全も殺せ」
翌6月24日、頼家は京都にいた源仲章(演:生田斗真)と佐々木定綱(演:木全隆浩)に頼全の暗殺を命じる使者を発します。
江兵衛尉能範爲使節上洛。是頼全〔全成子〕可誅之由。被仰相摸權守。佐々木左衛門尉等故也。
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)6月24日条
「……これでよし」
北条にまで手は伸ばせなかったけど、とりあえず脅しくらいにはなっただろう……全成を殺し、頼全も間もなく死ぬ。頼家と能員は一息ついたことでしょうが、話はそこで終わりませんでした。