敗者から見た「鎌倉殿の13人」文武両道に優れた公達、誰もがその死を惜しんだ平忠度とは?【後編】:2ページ目
平忠度の歴史上稀にみる見事な最期
一ノ谷の戦いで、平忠度も最期を迎えます。味方が崩壊していく中、忠度は敗走する兵を百騎ばかり統率して、西に退路を見出し、戦線からの脱出を図りました。
明石で船を得て屋島に向かおうとの考えであったようです。そうしている間にも、源氏の兵は膨れ上がり、忠度勢に波状攻撃を加えてきます。
忠度は慌てずに指揮し、敵の攻撃を巧みにいなしながら明石を目指しますが、この様子を遠くから見ていた者がいました。
武蔵七党の一つ猪俣党の岡部忠純です。忠純は一隊を率いて追いつき、忠度に声を掛けました。
忠純:いったい貴方はいかなる人でいらっしゃるのか。名をお名乗りください。
忠度:我らは貴公同様、源氏の者だ。
しかし、不審に思った忠純は、忠度の兜の中を覗き込みます。するとそこには源氏の武者には風習がないお歯黒で歯を黒く染めている顔があったのです。
そして、よく見ると紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧を着て、黒毛の太く逞しい馬に、漆塗りの上に金粉をふりかけた鞍を置いて乗っています。
忠純は平氏の身分ある武者に違いないと考え、馬を寄せるや否や組み付きました。これを見て、忠度の周りにいた兵たちは蜘蛛の子を散らすように方々に逃げ去ってしまったのです。
忠度:憎い奴だな。味方だと言ったのだから、味方だと思えばよかったのだ。
忠度は素早く太刀を抜くと、組み付いている忠純を二刀打ち据えます。忠純がたまらず落馬したところを、馬上から三刀にわたり突きました。
忠度は薄手だと悟ると、馬から飛び降り、首を掻こうと忠純を組み伏せます。
そこに、忠純の郎党が駆け寄り、背後から太刀で忠度の右の腕を肘のもとから斬り落としたのです。
深手を負いながらも忠純を押さえつけていた忠度ですが、今はこれまでと悟ると、左手一本で忠純の身体を2m以上投げ捨てました。
忠度:念仏を唱えるゆえ、暫し待て!
忠度は、西に向かい正座すると静かに十念(念仏)を唱えました。忠純は、それが終わるや否や、太刀を振りかざし、後ろから忠度の首を刎ねたのです。
討ち取ったものの、相手が誰だかわからない忠純は忠度の遺体を検めました。
ふと、箙(えびら)に目を移すと、文が結び付けられています。文を解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌がしたためられていました。
行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげを やどとせば 花やこよいひの あるじならまし 「忠度」
これを見て初めて忠度と判ったのです。喜び勇んだ忠純は、忠度の首を太刀の先に貫き、高く差し上げ名乗りをあげました。
忠純:日頃名高い平家の御方である薩摩守殿を、岡部六野太忠純が討ちたてまつったぞ。
なんと、お気の毒なことだ。武芸にも歌道にも達者でいらっしゃった人を。惜しむべき大将軍を失ったとは。
これを聞いた者たちは源氏・平氏を問わず皆涙を流し、袖を濡らさぬ人はなかったといいます。
いかがでしょうか。これが文武両道を極めた平忠度の最期でした。こんな見事な最期は、日本史上稀なことだと思うのは筆者だけでしょうか。
長い文章になりましたが、2回にわたりお読みいただきありがとうございました。