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高速なのに遅かった!?日本史上最速の駆逐艦「島風」の誕生とその運命

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「島風」誕生すれど…

さて「島風」ですが、日本は日露戦争勝利後の1907年、仮想敵国をアメリカに設定しました。

いずれ海上戦でアメリカ側を撃破するには、戦艦同士の決戦を行う前に駆逐艦や軽巡洋艦などで敵の戦力を少しでも削ぎ落としていく必要があります。

そのためには駆逐艦の性能を高めて、搭載する魚雷の威力も高めておかなければなりません。

日本海軍では、大正年間に1,300トンクラスで最高速力39ノットの駆逐艦ができていました。しかしさらに1939年には、公式排水量3,000トンクラスながら速度40ノット強の高速駆逐艦「島風」の開発が計画されます。先述したジェットフォイル並みの高速船です。

こうして造られた島風は燃費も良く、吹雪型の航続距離が14ノットで5,000海里(9260km)だったのに対し、島風は18ノットで6000海里(1万1110km)と、「速くて低燃費」という高性能ぶりでした。

そんな島風には、敵戦艦に見つからないように高速で迂回接近し、遠距離から秘密兵器「酸素魚雷」を一斉に発射する奇襲戦法が期待されます。

しかし当初16機が建造される予定だった島風は、実際には1943年5月に竣工した1機のみとなってしまいます。

なぜそんなことになったのか、理由は2つ。まず1つは、駆逐艦は巡洋艦とは違って敵の距離や位置を正確に測る高性能測距機や射撃管制能力を持つことができず、遠距離雷撃の効果が薄かったためです。

2つ目は、戦いが海上戦から空中戦の時代に変わったためです。

島風は、結局本来の遠距離魚雷で力を発揮することができず、任務と言えば艦隊や輸送船団護衛がほとんどでした。

そして1944年11月11日、島風はレイテ島北西部のオルモック湾でアメリカ軍の空襲を受け撃沈されました。竣工からわずか1年6か月後のことでした。

高性能にも関わらず消えてしまった島風ですが、時代がもっと早ければもう少し活躍の場があったかも知れません。言い方を変えれば、実際に戦場で力を発揮するには少々時代遅れだったのでしょう。

高速船だったのに、歴史に登場するのが遅かったというのは、なんとも皮肉な話です。

 

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