かっぱ橋道具街の「かっぱ」はやっぱりあの妖怪だった…!地名にまつわる伝承を解き明かす:2ページ目
河童の由来は奈良時代
ここで、『北肥戦誌 九州治乱記』という歴史資料の話をします。実はこの中に、興味深い逸話が書かれているのです。
それによると、奈良時代に、兵部大輔島田丸が春日神社の造営に取り掛かった際に、99体の人形を作ってそれを働かせ、工事を早く終わらせたとあるのです。ちなみに島田丸は橘諸兄の孫にあたります。
そして春日神社の完成後、その人形を川に捨てたところ、人形は人々に害をなすようになってしまったのです。
と、このような奇妙なエピソードが載っているのですが、なぜ工事を手伝ってくれた人形たちは、川に捨てられてしまったのでしょうか。
これは、当時の職業差別的な意識が関係しています。
古代の日本社会では、農業を除く特殊な技術を持った人々は、位が低い存在だとみられていました。つまり、土木技術者は不浄の存在と捉えられていたのです。
よって、島田丸が神社造営の際に作った人形というのはそうした技術者集団のことで、彼らは穢れを負った存在として川に流されたことにしてしまったのでしょう。
民俗学者の柳田國男は、「この人形こそが河童の原型である」と述べています。河童の親戚とされる妖怪に「ひょうすべ」というのがいますが、この「ひょうすべ」の語源は、先に挙げた島田丸の「兵部」とされていますし、河童は橘氏の眷属でもあるというつながりもあります。
このことから、かっぱ橋道具街に伝わる伝承も、まったく根拠のない作り話ではないのかも知れません。
合羽屋喜八は、私財を投げ打ってまで工事を行った偉人です。そんな彼に感銘を受けたか、あるいは雇われて工事に協力した土木技術者が存在したのかも知れません。
民俗学の知見を通して見ると、古代日本の日本人の精神が、見えない糸で現代までつながっていることが分かりますね。
慣れ親しんだ町の名前にも、日本人の古い記憶や歴史などが刻まれているものなのです。