武田信玄、命を懸けた野田城攻め!「甲斐の虎」の最期の戦いの理由とは?:2ページ目
偉大な統治者でもあった武田信玄
持病を持ち、近いうちに死期を迎えると悟っていた信玄は、自分の命があるうちに国の財政基盤を盤石なものにしておかなければならないと考えていたのです。
もともと信玄は、肖像画ではいかにも頑強で壮健そうな風貌をしていますが、若い頃から持病を患っており何度も吐血したことがあるという記録があります。
武田四天王の一人「高坂昌信(高坂禅正)」の資料『甲陽軍艦』によると、信玄は膈(かく)の病だったとされており、長らく彼は胃ガンまたは食道ガンを患っていたのだろうと推測されています。最近の研究では、「日本住血吸虫症」という風土病だったとも言われています。
いずれにせよ、信玄は若い頃からずっとそんな体調だったので、常に自分の亡き後について意識していたのでしょう。
彼は、三河国の鉱山にまだまだ金脈があると予想して、領土の拡大を目指したのです。野田城は、武田家が新たな鉱山資源を確保するための重要な戦略拠点だったのでした。
実際、信玄が亡くなった数年後には、三河国の段戸山(現在の鷹ノ巣山)で金鉱が新たに発見されています。
こうして信玄は、1571(元亀2)年に三河に侵攻して手始めに吉田城を攻略しました。そして設楽郡一帯を支配下に置くと津具金山を手に入れ、そして野田城を降伏させます。
これにかかった費用は現代の金額で100億円以上。この戦が、武田家にとって大規模な先行投資だったことが分かります。「自分の命があるうちに、甲斐国の将来のために新たな鉱山を確保しておきたい」という強い思いが読み取れますね。
彼は野田城の攻略後、城の補修工事を行います。そして帰郷の途中、信濃駒場でついに帰らぬ人となったのでした。享年53歳。
彼が、単に「強い武将」だっただけではなく、きちんと未来を見越してものを考える「統治者」でもあったことが分かりますね。
ちなみに、甲斐国は河川の氾濫が頻発していたと先述しましたが、今も山梨県に残る「信玄堤」として有名な治水システムは、困っている領民のためにと信玄の命で築かれたものです。
参考資料