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歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】

歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】:3ページ目

武田勝頼にも重用される

永禄2年(1559年)に信玄が出家すると、光堅も共に出家しました。この出家とあわせて、長坂釣閑斎と名を改めています。もしかすると、長坂光堅よりもこの釣閑斎という出家名の方が有名かも知れませんが、ここでは長坂光堅という名前で通します。

永禄5年(1562年)に、信玄の息子である武田勝頼が高遠城主になると、光堅はこのことを義信へ伝える使者を務めました。

光堅は勝頼とも関係が深く、元亀4年(1573年)の信玄没後も、勝頼に行政官として重用されています。

経歴を見ると、光堅がその才覚を認められたのは年齢的にだいぶ後のことです。ただ、信虎・信玄のたった二代で甲斐の統一から信濃・上野・駿河への勢力拡大までを果たした武田家にとって、代々仕えており実績のある家臣は貴重だったのでしょう。

また、詳細を書くと煩雑になるので割愛しますが、一般的には武田勝頼は武田家の後継者とされていますが、正確にはそうではありません。

正式な後継者は信玄の孫で、勝頼は「後見人」です。この、勝頼の微妙な立場が武田家の結束を弱める結果になるのですが、そんな立場の勝頼をサポートしてくれる光堅のような存在はありがたかったことでしょう。

さて、このように武田家二代に渡って重用され、重職にも就いてきた光堅ですが、彼の「悪評」にはどのようなものがあるのかを【後編】で見ていきましょう。

後編はこちらから

参考資料
ほのぼの日本史

 

 

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