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歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】

歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】

武将としての実績

皆さんはご存じでしょうか? 武田信玄の息子である武田勝頼の重臣で、史料上では相当評判の良くない人物です。

今回は、そんな彼の悪評がどこまで本当なのかを考えてみたいと思います。

まずは、彼の戦国武将としての実績を見ていきましょう。

光堅は、永正10年(1513年)に武田信虎(武田信玄の父)の家臣・長坂昌房の子として生まれました。実名は長坂虎房というのですが、後に光堅と改名しています。

光堅の名前が初めて登場するのは、武田信玄の信濃侵攻の記録です。この時の彼は足軽大将で、諏訪郡代である板垣信方を補佐する役割でした。当時光堅は31歳。

しかし天文17年(1548年)に上田原の戦いで信方が戦死すると、諏訪郡代の後任として上原城(現:長野県茅野市)に派遣されます。ちなみにこの上田原の戦いは、武田信玄の数少ない痛恨の敗戦の一つです。

また、その翌年の天文18年(1549年)には高島城(現:長野県諏訪市)へ入城し、諏訪統治の新拠点を任されました。

その後も、越後の上杉氏との抗争が激しくなると北信濃国衆・香坂氏の取り込みを図ったり、外交面でも遠江の国衆・天野景泰のところへも赴き、本願寺との交渉も任されています。

さらに第三次川中島の戦いでは日向虎頭と共に北信地域の探索を命じられたりするなど、重用されています。また三枝虎吉室住虎光と共に行政官の仕事もしています。

3ページ目 武田勝頼にも重用される

 

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