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源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】

源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】:3ページ目

安倍頼良が恭順、陸奥に平穏が戻る

源頼義が陸奥に着任すると、安倍頼良は突然、敵対行動を中止します。頼良は「よりよし」の名が国司と同じでは畏れ多いと「頼時」に改めるなど、平身低頭で恭順の意を表しました。

朝廷は、国母・上東門院(藤原彰子)の病気平癒による恩赦などで安倍頼時を許しました。この時、藤原経清と平永衛も許されて、在庁官人に復帰したと考えられています。

しかし、なぜやすやすと朝廷が三人を許したのでしょうか。当時、国司は受領と呼ばれ、下級貴族にとってはとても魅力的な役職でした。豊かな国に赴任すれば、その期間中に様々な手段で富を蓄えることができたのです。

国司の大きな役割に貢租の取り立てがあります。国司の中には、必要以上に貢租を取り立て、それを横領していた者もいました。そうしたことから、前国司の藤原登任側にも落ち度があったのを朝廷は認識していたのかもしれません。

安倍氏に対して余り厳しい処断を下すと、火に油を注ぐ状況になりかねないという配慮が働いたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

1053(天喜元)年、源頼義は陸奥守兼鎮守府将軍に任じられました。そして、1056(天喜4)年にその任期が終了し、ついに京都に戻る時が来ました。1051(永承6)年の陸奥守就任以来、何事もなく時は過ぎていったのです。

【その1】はここまで。【その2】では、「前九年の役」再燃のきっかけとなった「阿久利川事件」藤原経清が源頼義から離反した理由についてお話ししましょう。

【その2】はこちらから

 

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