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源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】

源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】

安倍氏が鬼切部の戦いで国司軍を破る

理由はともあれ、こうした安倍頼良の動きは、朝廷としては見逃すことはできませんでした。貢租を怠った懲罰として、1051(永承6)年に陸奥守藤原登任(のりとう)が、秋田掾介平重成の援軍を得て、1000名の兵で頼良を攻める「鬼切部の戦い」が起きます。

安倍頼良は本隊を率いて国府軍と激突します。そこに頼良の子貞任・宗任が率いた別動隊が山沿いから奇襲をかけ、朝廷軍を一蹴しました。敗れた登任は多賀城に逃げ帰りますが、陸奥守を解任されてしまいました。これに危機感を覚えた朝廷は、武勇の誉れ高い河内源氏の御曹司・源頼義を陸奥守に任じたのです。

頼義は、「鎌倉殿」こと源頼朝の祖先にあたります。その系図を簡単に記してみましょう。

①源経基(清和天皇孫)―②満仲―③頼信(河内源氏祖)―④頼義―⑤義家―⑥義親―⑦為義―⑧義朝―⑨頼朝(鎌倉幕府初代将軍)

頼義は、都から多数の郎党を率いて多賀城に着任しました。彼らは、平忠常の乱などを戦ってきた歴戦の武士たちです。

しかし、頼義が戦力として最も期待していたのは、在庁官人で陸奥国亘理郡を領する藤原経清と陸奥国伊具郡郡司の平永衛(ながひら)でした。

二人は、藤原氏・平氏という中央貴族の血筋でありながら、陸奥国で勢力を拡大していました。そして、ともに安倍頼良の娘を妻にして安倍氏と婚姻関係を結んでいたのです。

経清と永衛が頼義に従属すれば、安倍氏は内部分裂という危機をむかえることになります。しかし、「鬼切部の戦い」の際、二人は国司軍から離脱し、頼良の味方をしていたのです。

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