悪行三昧の結果、餓死者や身売りが続出!庄内藩・酒井家の厄病神がもたらすお家騒動【前編】:2ページ目
恩に仇なす弟
さて、庄内藩で客分として生活し始めた忠重ですが、この時点で彼は兄の忠勝から二度に渡って助けられていることになります。一度目は農民の一揆の時に幕府に口利きをしてもらったこと、二度目はいわば身元引受人として忠重を引き受けてもらったことです。
ただこれは、見方を変えれば、忠勝がいかに弟に対して甘かったかということでもあります。
この身びいきが災厄をもたらします。居候の身にも関わらず、忠重は庄内藩の藩政にたびたび介入するようになりました。
もともと忠重は酒井家の家督を乗っ取る計画を立てていたと思われます。もともと彼には、庄内藩の寄合旗本だった弟の酒井了次(のりつぐ)を陥れて死に追いやった経歴があります。
まず忠重は、乗っ取りに向けて自分の息子を利用します。兄・忠勝の娘に、長男の忠広をめあわせて、将来的な庄内藩のお世継ぎにしようとしたのです。忠勝には当時既に20歳になっていた忠当(ただまさ)という息子がいたにも関わらず、です。
さてここで、酒井家の家臣の一人が忠重の企みに気付きました。その名は高力喜兵衛(こうりき・きへえ)といい、彼は忠勝の妹の子、つまり忠当の従兄弟にあたる人物でした。
彼はいわば「忠当擁護派」となり、忠重と対立する形になりました。
高力喜兵衛は、酒井忠重の力を削ぐために、忠当の義理の父親にあたる松平信綱(まつだいら・のぶつな)に書状を送り、忠重・忠勝の引き離しを計画しました。
しかしそれに気付いた忠重も策を練ります。彼は、高力喜兵衛の味方だった毛利長兵衛という人物を脅迫し、自分に従わせます。
そして毛利を使って、「高力喜兵衛は松平信綱と一緒になって、忠勝を隠居させようとしている」と嘘の告げ口をさせたのでした。
もちろんこれは真っ赤な嘘なのですが、この讒言に激怒した忠勝は、1646(正保3)年に、高力喜兵衛とその一族を酒井家から追放してしまったのです。そして、高力家一門やその関係者は追放・切腹に処されました。
後編では忠勝の死と、なおも宗家に迷惑をかけ続ける忠重の所業とその最期を説明します。
参考資料