【鎌倉殿の13人】限定頒布の御城印ゲット!大庭景親が住んでいた?相模国・大庭城の歴史:2ページ目
大庭景親の館跡だった?
大庭城の起源については諸説ありますが、室町時代後期から戦国時代初期にかけて扇谷上杉氏が築城したとする説が有力なようです。
享徳元年(1452年)に扇谷上杉氏が大庭御厨(おおばのみくりや)を領有しているため、この辺りの時期に築城したか、あるいは既存の砦(※)を本格的に改修したのでしょう。
(※)大庭景親の父・大庭景宗(かげむね)が築城したとの説もあるようです。
御厨とは伊勢の神宮(いわゆる伊勢神宮)に寄進する供物を供給するための領地で、その代わりに国衙への年貢を免除される特権が得られました。
大庭御厨は大庭景親らの祖先・鎌倉権五郎景正(かまくらの ごんごろうかげまさ)が開拓、以来この一帯は鎌倉一族が治めています。
「それじゃあ、大庭景親の館は?」と言うと、『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』によれば大庭城から少し南の位置に建っていたことが言及されており、「大庭城≒大庭景親の館跡」とする説(※)は江戸時代の創作なのだそうです。
(※)大庭景親の館跡に目をつけた築城の名手・太田道灌(おおた どうかん)が本格的に改修。難攻不落の名城になったと言われますが、地元民の期待がそのような伝承を生みだしたのでしょう。
ただし、中世の武士はいつも城にいた訳ではなく、平時は利便性の高い館で暮らし、戦闘時は守りやすい城砦に立て籠もる者もいましたから、大庭景親が館と城の双方を所有していた可能性も否定できません。
そんな大庭城の城主として名前が残っているのは上杉朝昌(うえすぎ ともまさ)、一門の有力者で長享2年(1488年)に大庭城へ移って来た記録があります。
しかし永正9年(1512年)に西部から勢力を伸ばしてきた伊勢宗瑞(いせ そうずい。北条早雲)が大庭城を攻略(合戦の痕跡がないことから、無血開城したのかも知れません)。
城主の座を継いでいた子の上杉朝良(ともよし)は城を追われ、翌年鎌倉郡に玉縄城(たまなわじょう。現:鎌倉市)が築かれると存在価値も薄まり、やがて廃城とされたのでした。