縄文時代はなんと一万年以上もあった!(最終回)晩期・人々の精神性は高く〜縄文時代の終焉:2ページ目
水稲水田・稲作文化の始まり
そのころ九州北部では水稲水田が始まります。
佐賀県唐津市の「菜畑遺跡」は日本最古の水稲耕作遺跡であり、従来の縄文時代の水田跡が発見されています。この遺跡からは炭化米や石包丁、鍬、鎌などの農業用具も出土しています。
福岡県福岡市の「板付遺跡」でも縄文水田の跡が発見されており、九州北部で縄文時代晩期に稲作文化が始まっていたことが分かります。
九州北部に稲作文化が伝わったのは、中国を元にして朝鮮半島もしくは台湾を通じて伝えられたとされています。
“稲作文化”の定着、つまり農耕作業を生業とするようになると、縄文時代は終焉を迎えることになります。
環状木柱列(ウッドサークル)
そして縄文時代・晩期に登場するのが環状木柱列・ウッドサークルです。これは縄文時代晩期の北陸地方だけに出土する特殊な遺構です。
石川県鳳珠郡能登町の「真脇遺跡」の環状木柱列は巨大な柱の列が円形に配置された構成をしており、円形に並んだ柱の中には入り口と見られる施設が作られています。
巨大な柱は太さ直径80 – 96センチメートルもあり、全て頑丈で腐りにくいクリの木で統一されています。
そのクリの木は丸太ではなく半分に切られ中央をかまぼこ状に削られています。そしてその掘られた面が外側に向けられて建っています。
同じ石川県金沢市の「チカモリ遺跡」にある環状木柱列も良く似た構造になっています。
このような巨木を用いた構造物は巨木文化と呼ばれ、同様の構造物は富山県小矢部市の桜町遺跡など、石川県や富山県を中心に約20遺跡で見つかっています。
これらの地域では土器などの特徴も共通するといわれており、縄文時代晩期の北陸地方に、同じ思想を持った人たちの集団が暮らしていたのではないかと考えられています。
今のところ、柱列の中に炉や墓坑などは確認されておらず、住居や墓ではなかったことはわかっています。屋根や壁などの付属施設のようなものもなく、柱だけが立っていたと考えられています。
実は「真脇遺跡」からは“土製仮面”が発掘されています。
人間が仮面を被るということは、その人間以外のものになるということです。
何のために?人間以外の強いものになって何かを祈る、そのような呪術的儀式や祭祀が行われていたということを表しているのではないでしょうか。
縄文時代・晩期の頃、日本の人口は約7万5800人にまで減少したと推定されています。
気温が低下するという気候変動に伴い、人々は生きることに不安や危機感を感じていたのは間違いないと思われます。
そのため人間以外のものになってまで、自然の再生や豊作・豊漁、祖先崇拝などをなにかに必死に祈っていたのではないでしょうか。
ウッドサークルとは何なのか、時計説や灯台説、儀式祭礼場など様々な説がありますが、未だに決定的な答えはでていません。