人柱など必要ない!少女の命を救った戦国武将・毛利元就の教え「百万一心」とは:2ページ目
人柱など許さない!毛利元就の教え
時は戦国、永正5年(1508年)ある日のこと、当時12歳だった毛利元就(当時は松寿丸)が厳島神社を参拝したところ、5~6歳ほどの小さな女の子が泣いているのを見つけました。
「いかがしたか」
聞けば少女は母親と二人で巡礼の旅をしていたが、ある旅先で母親が築城の人柱に選ばれ、そのまま生き埋めにされてしまったそうです。
「何とむごい……こんな幼な子を遺して、お母上もさぞや辛かったろうに……」
自分自身も幼くして両親と死に別れているため、他人事には思えなかった元就少年は、少女の身柄を引き取ることにします。
それから15年の歳月を経た大永3年(1523年)、すっかり成長した元就は吉田郡山城へ入りますが、本丸の石垣が何度も崩れて困っていました。
「これはやはり、人柱を立てねば神様が鎮まらぬのでは……」
誰かが口を開くと、普請奉行は「そう言えば、昔お屋形様が引き取った娘がおりましたな。あれを人柱にしてはいかがでしょうか」と進言。それを聞いた娘も
「かつてお屋形様に助けていただいたご恩を少しでも返すのは今この時をおいてございませぬ。どうか私を人柱に……」
などと殊勝なことを申し出たところ、元就は奉行と娘を叱り飛ばします。
「黙れ!人柱など必要ない!もし我が許可なしに人柱など立ててみろ、その方の首が飛ぶと思え!」
と、大層な剣幕で部屋を出ていった元就は、やがて何やら書かれた紙を手に戻って来ました。
「……見よ」
「「……百万一心、にございますか」」
「いかにも。百万の皆が心を一つにすれば、人柱など立てずとも地の神は鎮まろうぞ」
大書された文字をよく見ると、百は「一」と「日」、万は「一」と「力」に分かれ、そして一心となっています。
これは「日を一つ(同じ)に、力を一つに、心を一つに」する意味を持ち、みんなが一斉同時に力と心を合わせれば、成し得ぬことなどありはせぬという元就の決意が表れていました。
「どうしても何か埋めたいのであれば、その文字を石に刻んで埋めればよい」
「ははあ……」
果たして百万一心の石碑を埋めたところ、石垣普請は成功し、以来崩れることはなくなったそうです。