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開港から明治維新まで相次ぎ発生していた攘夷派による横浜での外国人殺傷事件簿

開港から明治維新まで相次ぎ発生していた攘夷派による横浜での外国人殺傷事件簿

オランダ人船長殺害事件

安政7(1860)年2月26日、オランダ人船長フォスとデッケルが買い物を済ませ、船に戻ろうとしていたところ惨殺された。殺害現場は前年にロシア海兵殺害現場が起きたわずか100mほどの場所だった。

オランダは幕府に対して1700両の賠償金の支払いと犯人の処刑を要求し、この事件は日本が外国に賠償金を支払った前例となった。

しかし、賠償金は支払ったものの、肝心の犯人は最後まで判明せず不明のままである。

ロシア海兵とオランダ人船長が殺害された現場は現在の横浜市中区本町付近で、当時は多くの様々な店が軒を連ねる大通りであった。

生麦事件

文久2(1862)年9月14日はよく晴れた日だった。生糸商人のウィリアム・マーシャルとハード商会のウッドソープ・クラーク、マーシャルの妻の妹ボラディル夫人、クラークと予てより交流のあったチャールス・リチャードソンの4人は、馬に乗って川崎大師へ向かっていた。

その道中、薩摩藩島津久光の大名行列と遭遇するが、下馬することなくそのまま行列に乗り入れてしまったリチャードソンが斬り付けられ殺害された。幕末史においてあまりにも有名な生麦事件である。

クラークとマーシャルも重傷を負ったが、アメリカ領事館に逃げ込み助かり、ボラディル夫人も馬を走らせ、横浜居留地に逃げ帰ったため無事であった。

生麦事件は攘夷派による殺傷事件とは異なり、偶発的に起きたことではあるものの、日本に与えた影響は大きく、イギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩に2万5千ポンドの賠償金を請求。薩摩は支払いに応じなかったため、事件の翌年に薩英戦争が起きた。

横浜周辺では開港からわずか2か月後にロシア海兵殺害事件が起こり、その後も相次いで外国人が殺傷される事件が起き、横浜居留地に住まう人々を震え上がらせた。
今回紹介した事件の被害者は全員、横浜外国人墓地で眠っている。

 

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