日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】:2ページ目
なぜ、ならまちに最古級の遊郭ができたのか
日本に遊郭あるいは色町が最初にできたのはいつ頃なのでしょうか。奈良時代に成立されたとされる『万葉集』には、遊行女婦(うかれめ・あそびめ)という女性が登場します。
元来、遊行女婦は、鎮魂のため歌と舞いを演じる儀礼を行う女性を指した言葉といいます。古代において、神の神託を受ける女性は特別な存在と考えられ、そうした女性と触れ合うこともまた特別な力を得るとされていたのかもしれません。遊行女婦は、平安時代になると、遊女(あそび)という名に変わって行きます。
遊行女婦も遊女も、高貴な男性(皇族・貴族など)が開く宴席で芸能に従事するとともに、知り合った男性と情を結ぶ女性もいたようです。
【大伴旅人が心惹かれた遊行女婦・児島】
大宰府の長官を務めていた大伴旅人が、大納言への栄転が決まり、平城京へ帰る時、水城の堰堤で「これで見納めか」と大宰府の方を顧みるシーンが『万葉集』にあります。
その時、過ぎし日に愛を交わした遊行女婦の児島と目が合います。児島は、おそらくは旅人を見送る人々の中に佇んでいたのでしょう。旅人と児島は、別れの悲しみに耐えられなくなり、以下のような問答歌を残しています。
おおならば かもかもせむを かしこみと 振りいたき袖を 忍びてあるかも (児島)
ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ (大伴旅人)
元興寺とともに発展したならまちと木辻遊郭
ならまちの起源は、元興寺なしでは語れません。元興寺は、蘇我馬子が明日香に造営した日本最古級の寺院である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都で新築移転したお寺です。
今は元興寺極楽坊として、さほど広くない境内に極楽坊本堂と禅室(ともに国宝)が建ちますが、かつては南都七大寺の一つとして東大寺や興福寺と並ぶ広大な敷地を誇りました。ならまちは、その境内地の一部と考えられています。
そんな大寺院だけに、その造営事業には多くの人々が携わったとされます。労働のための職人や人足が集まれば、そこには自然と女たちが集まり、傾城街や遊女屋が形成されたと考えられ、それが木辻遊郭のはじまりとなったのです。
元興寺が明日香から移転したのは、718(養老2)年とされます。ですから、木辻遊郭は1300年もの歴史を有していたことになるのです。まさに日本最古級の遊郭といっても差し支えないでしょう。
【前編】はここまで。【後編】は、木辻遊郭跡をめぐってみましょう。