武士も天下も興味はないが…心ならずも領民のために闘った戦国武将・三木国綱【下】:3ページ目
エピローグ「飛騨の意地を思い知れ!」
「入道殿はご在宅か」
武士は辞めたものの、さりとて今さら水無神社の宮司に戻るわけにもいかない国綱は、人里離れたあばら家に隠棲していました。
「……何ぞ用か」
訪ねて来た顔ぶれは、江馬時政(えま ときまさ。右馬助)、鍋山右近大夫(なべやま うこんのたいふ)、広瀬宗直(ひろせ むねただ)らと言った、かつて姉小路家に滅ぼされた残党たち。
「昔の怨みでも、晴らしに来たのか」
「いや、実は折り入って頼みがあってな……」
「もはや世俗を離れた出家の身に何が出来るとも思えぬが、聞くだけは聞き申そう」
……彼らの話によると、金森長近は「姉小路征伐に味方すれば、旧領を安堵する」という約束をしたものの、いざ飛騨を占領すると「お前らの力などなくても勝てた」などと言いがかりをつけて約束を反故にしたと言います。
「それなら最初から約束などするなと……」
「……話は分かった。それで、わしに何をせぇと」
「我らが盟主となって、再び飛騨を取り戻していただきたい」
もうほとほと武士稼業に嫌気が差していた国綱ですが、聞けば新たに飛騨の国司となった金森一族は、従来の文化・習慣を踏みにじり、領民たちに苛政をしいているとか。
「……致し方あるまい。たとえ我らことごとく滅ぶとも、連中に飛騨の意地を思い知らせてくりょうぞ!」
「「「えい、えい、おぅ!」」」
領民たちからの願いもあり、後世に言う「三澤の乱」が勃発。国綱ら飛騨牢人衆は叛乱の拠点を確保するべく、かつての居城・山下城を攻め立てましたが、衆寡敵せずあえなく全滅。
「どうか、飛騨の民を安んじて下され……!」
時は天正13年(1585年)、国綱は40歳の命を散らしましたが、これをキッカケに金森一族も飛騨国の統治姿勢を改めるようになったということです。
【完】
※参考文献:
岡村守彦『飛騨中世史の研究』戎光祥出版、2013年10月
谷口研語『飛騨 三木一族』新人物往来社、2007年2月