幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【前編】:2ページ目
蝦夷防衛のために各藩藩士を派遣する
こうしたロシアに対して、江戸幕府は早急な北方警備の必要性に迫られます。
1807(文化4)年、幕府は、弘前(津軽家10万石)・秋田(佐竹家20万石)・盛岡(南部家20万石)・庄内(酒井家14万石)の各藩に命じ、総勢3千名を蝦夷防衛のために派遣したのでした。
この派遣では、幸いなことにロシアとの交戦はありませんでした。
しかし、知床半島北側の斜里で防衛にあたった津軽(弘前)藩では、100人中70人が寒さや風土病で亡くなるという惨事が起きてしまいました。
本州最北端に暮らす津軽藩士は、寒さに慣れていたはずです。しかし、真冬のオホーツク沿岸の想像を絶する自然の厳しさは、容赦なく襲いかかってきたのです。
こうした状況をみた幕府は、北方警備の再構築を図ります。1808(文化5)年、函館・国後・択捉の警備を仙台藩に命じ、さらに、会津藩をして、樺太・宗谷・利尻島・松前の警備を命じたのでした。
会津藩が危険を冒しても派兵した理由
会津藩にとって北方警備のために藩士を派遣すること、特に樺太・宗谷・利尻島といった最北端の地への派遣は、津軽藩の惨事からもわかるように大変危険を伴うものであったはずです。
しかし、驚くことにこの派遣は、会津藩が内々に幕府に願い出て、それを幕府が認めたという事実があったのです。
北方警備は藩士の命を危険にさらすだけでなく、藩にとっても大変な出費を強いられる事業でした。
幕末当時、多くの藩は財政難にあえいでいましたが、会津藩もご多聞に漏れず、超財政難といった状況にあったのです。
では、なぜ会津藩は自ら北方警備を願い出たのでしょうか。その答えは、会津という場所にありました。
会津は、奥羽の喉元に位置します。幕府は、会津藩をして奥羽諸藩の抑えとしたのです。そのため、会津藩はその武威を幕府にも諸藩にも示す必要があったわけです。
北方警備を成功裏に成し遂げること、そして万が一ロシアと戦闘状態になったとしても、それに打ち勝つことが、会津藩の宿命であったのです。