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尊皇攘夷の志半ばに…誤解が生んだ幕末4志士の悲劇「四ツ塚様」事件【下】

尊皇攘夷の志半ばに…誤解が生んだ幕末4志士の悲劇「四ツ塚様」事件【下】

非業の最期と、惨たらしい仕打ち

さて、残された千屋は命からがら土居村へ逃げ込みましたが、恃みだった安東正虎が不在だったためか、町方総代の武藤太平(むとう たへい)に事情を話し、強盗の疑いを晴らそうとしますが、やはり聞く耳を持っては貰えませんでした。

「かくなる上は、一死を以て罪を謝し奉るよりあるまい……」

遺書をしたためた千屋は宿屋の一室で自刃。志半ばに非業の最期を遂げましたが、話はこれで終わりません。

「死んで済むなら、地獄は要らねぇんだよ!」

「そうだそうだ!八つ裂きだヒャッハー!」

農民たちは引き渡された4人の死体をズタズタに切り裂き、気が済むまで凌辱の限りを尽くした挙げ句、河原に投げ捨てて犬やカラスの食い荒らすままとしたそうです。

千屋の遺書も武藤らによって握りつぶされ、事件は闇に葬り去られるかと思いましたが、そんなこともあろうかと、千屋は遺書をもう一通用意していたのでした。

「これを、安東殿へ届けてくれ……」

「はい」

先刻受け取った金子(きんす)を握らせ、宿の使用人によって安東正虎に遺書が届けられます。

「あの時、わしが在宅しておれば、むざむざ尊皇護国の志士を喪わずに済んだものを……!」

事実が明るみに出ると、近郷じゅうの村々から非難の声が沸き起こりました。

♪西に百々の酒屋がなけりゃ 若い侍殺しゃせぬ……♪

当時、そんな俗謡も流行ったそうで、あまりにも惨たらしい所業を恥じたのか、あるいは批判をかわすためのパフォーマンスなのか、4志士を弔う塚を建立。それが「四ツ柄様(よつつかさま)」として今日に伝わっています。

エピローグ

そんな事件から33年が経った明治31年(1898年)、明治政府によって彼らの尽力が顕彰され、正五位の官位が贈られました。

必ずしも努力は実を結ぶとは限らず、せっかくの熱意も誤解されて無念の末路をたどることも少なくない世の中ではありますが、至誠通天、お天道様は見てござるもの。

4志士たちの尽力が、今の日本を築き上げる礎の一つとなったことを思うだけでも、彼らの無念も少しは報われることでしょう。

※参考文献:
岡山県 編『岡山県人物伝』岡山県、1911年2月
田中光顕『維新風雲回顧録』大日本雄弁会講談社、1928年3月

 

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