武田信玄が行った人材活用術。それこそが戦国最強軍団を生み出した原動力だった【前編】:2ページ目
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父の追放、嫡子廃嫡の苦い経験
武田信玄は、なぜ「優秀な人材こそが最も大切だ」と思うようになったのでしょうか。
それは、信玄が経験した二つの苦い出来事が影響していることに間違いないでしょう。
一つは、信玄の家督相続にまつわる父信虎の追放事件、そして、もう一つは、嫡男信義の廃嫡事件です。
この二つの事件に関しては、『武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前・後編】』で、ご紹介していますので、ここでは詳しい内容は割愛します。
しかし、お読みになっていない読者のために簡単に触れておきましょう。
【父信虎の追放事件】
信玄の父である信虎が甲斐統一を進める中で、自分の方針に反する重臣たちを大量に粛清しました。
危機を感じた家臣団がクーデターを起こし、信玄を武田家の新当主に据え、信虎を追放した事件です。
【嫡男信義の廃嫡事件】
今川氏真を攻めようとした信玄に反対した長男の義信が重臣たちと計らいクーデターを画策したものの失敗。
廃嫡の上、幽閉され、後に死去したという事件でした。
二つの事件に関与した家臣たちの多くは、元々は有力土豪(国人)層で、信虎・信玄が甲斐統一を進める上で、武田家に服従した者たちだったのです。
このように、有力土豪(国人)層が割拠していた戦国時代の甲斐国では、守護である武田家であっても、力だけで彼らをねじ伏せるのは不可能でした。
戦国大名として勢力を安定・拡大するには、土豪層の協力を得ることがカギであったことを、信玄は、二つの事件、特に家督相続における父の追放を通して身に染みたことでしょう。
その上で、信玄は、家督相続と甲斐統一に尽力してくれた家臣たちの持つ、それぞれの能力を生かし切る人材管理術が、武田家のさらなる飛躍に通じると理解していたのです。
後編では、武田信玄が実践した、具体的な人材管理術についてお話ししましょう。
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