密告と殺戮!奈良時代、それは血で血を洗う争乱が続いた時代だった。【前編】
平城京を中心に、東大寺・興福寺・春日大社などの寺社が建立され、国際色豊かな仏教文化が花開いた奈良時代(710~794年)。
その舞台である奈良は、悠久の歴史ロマン溢れる場所として親しまれています。
しかし、奈良時代の実態は、そうしたイメージと全く異なり、全時代を通じて、天皇・皇族・貴族の間で、血で血を洗う争乱が続いた時代でした。
なぜ、奈良時代に血なまぐさい争乱が続いたのか、その理由を政争史に的を絞りながら、奈良時代の歴史をお話しましょう。
奈良時代に天皇家・貴族が絡む抗争が続いた理由
読者の皆さんは、古代の天皇・皇族・貴族にどんなイメージをお持ちでしょうか?おそらくは、『源氏物語』の主人公・光源氏のような華やかだけど、少し弱々しい貴公子をイメージする人が多いのではないでしょうか。
しかし、奈良時代の天皇・皇族・貴族の多くは、太刀や弓の技を習得し、馬を自由に操る。そんな武人としての一面も持っていました。
奈良時代になると天皇の地位はある程度確立してきます。それは、645年に起きた乙巳の変(中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼした事変)を契機に大化の改新による中央集権体制が進められ、さらに、壬申の乱を経て、天武・持統朝で天皇を頂点とする皇親政治が形成されたことによるのです。
しかし、そうした政治体制が、天皇をトップに頂きながら、そのもとで皇族や貴族たちによる政争が頻繁に起こるという事態を招いてしまいました。
血気盛んな奈良時代の貴人たちは、藤原氏の専制を許すことなく武をもって立ち上がったのです。それが血で血を洗う抗争に発展したということができるでしょう。
新興貴族藤原氏の隆盛が始まる
奈良時代の政治史に重要な足跡を残したのが、中臣(藤原)鎌足の次男・藤原不比等(ふひと)でした。
持統天皇のもと一躍頭角を現し、大宝律令の編纂で中心的な役割を果たすことで、歴史の表舞台に立ちました。さらに、長女の宮子を持統の孫の文武天皇室とし、聖武天皇が誕生すると、天皇家の外戚として地位を固めていきます。
文武は、持統が寵愛したものの早世した草壁皇子(天武と持統の間の皇子)の子です。そうした文武だけに、即位すると持統が太政天皇(譲位により皇位を譲った天皇)として後見につきました。こうして、不比等と持統の関係はさらに深まったと考えられます。
不比等はその後、次女の長娥子(ながこ)を太政大臣・高市皇子(天武天皇の長子)の子長屋王に嫁がせます。そして、三女の安宿媛(光明子/後の光明皇后)を聖武に嫁がせ、藤原氏と天皇家との関係を盤石なものにしました。
不比等の死後は、その子である武智麻呂(むちまろ/南家)・房前(ふささき/北家)・宇合(うまかい/式家)・麻呂(まろ/京家)のいわゆる藤原四兄弟に引き継がれます。この四兄弟がその後、日本の歴史に大きな影響を与え続ける藤原氏の源流となるのです。