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町火消の心意気
江戸は大変火事の多い町でした。その理由としては極端な人口集中(江戸中期、江戸は人口において世界最大都市でした)、木造家屋の密接、冬季の乾燥した強風が吹き込む風土、金銭略奪のための放火などがありました。
江戸の消防体制としては「武家火消」と「町火消」の2つの組織がありました。
「武家火消」は江戸城や武家屋敷を守ることが主な役目で、町人たちの町家の火事対策には不十分なものでした。
そこで8代将軍吉宗は、南町奉行の大岡越前守忠相(あの加藤剛がテレビで演じて有名な大岡越前ですね、懐かしい)と大火対策を協議し、享保3年(1718年)、町人による「町火消」を編成させました。
もともと町屋の子弟や奉公人たちで構成されていた「店火消」という組織があったのですが、所詮は素人なので火事場に行っても役に立たない。大岡越前守はまずはそれを機敏な活動が得意な鳶職を中心とする組織に組み替え「町火消」を作ったのです。
そして名主たちの意見を参考にしていくつかの町を「組」としてまとめ、「いろは48組」を設けました。
「いろは48組」は隅田川の西側を担当し、隅田川の東側は「本所深川16組」が設けられました。
町火消に関する費用はそれぞれの町で分担して賄うこととされましたが、やがて組員たちは無報酬で火消しを行うようになったのです。
このようにして組織された町火消は、やがてお互いの組の名誉のために働くようになり、組の纏を上げて功績を競うようになりました。
町火消の出動範囲は町家だけのはずが、やがてその功績が認められ武家屋敷の火災はもちろん、江戸城二之丸の火災時にも出場して、定火消や大名火消にも勝るとも劣らぬ実力を示しました。
町火消の頭取クラスは江戸でも有名人として扱われ、また町火消の男たちは危険を顧みぬ度胸のよさと、火煙の中に飛び込んで人を助ける心意気を誇りとし、江戸の人々から親しまれました。
このように“自分の町は自分で守る”という意識が育まれ、町火消の存在は後の世にも意義のあるものになったのです。
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