源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【五】:3ページ目
再起を図って甲斐国へ…頼朝と再会し、富士川の決戦へ
「やれやれ……小四郎、大丈夫か?」
ボロボロになりながらも生き残った者たちが頼朝の元へ集合。義時は、乱戦の中ではぐれてしまった時政や宗時と再会しました。
「あぁ、無事だ……兄上、父上も健在で何よりです」
「おぅ。こんなところでくたばっては、政子に笑われてしまうわい……しかし、再起を図るためには味方を集めねばならんな……」
そこで時政は義時と共に甲斐国(現:山梨県)へ赴いて武田太郎信義(たけだ たろうのぶよし)に援軍を要請、宗時は単独で伊豆国へ戻り、まだ決起していない土豪たちの説得に当たります。
「それでは兄上、お気をつけて」
「小四郎、父上を頼んだぞ」
こうして頼朝の元を離れた義時たちですが、これが宗時と今生の別れになってしまうのでした(宗時は伊豆国平井郷、現:静岡県函南町で伊東祐親らによって討たれ、現地に墓が残されています)。
敵の包囲網をどうにか突破した時政と義時は甲斐国へと急いで信義と面会。源家再興の好機を喜んだ信義は、快く頼朝への援軍として兵を挙げました。
「よぅし、ちょうど駿河(現:静岡県東部)の目代・橘遠茂(たちばな とおしげ)らが源氏討伐などと吐(ぬ)かしてこちらへ向かっておるから、返り討って佐殿への手土産と致そうぞ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
石橋山から逃げ集って来た者たちも加勢して捲土重来(けんどちょうらい。リベンジ)の闘志に燃える信義の軍勢は、橘遠茂を捕らえ、その子息二名や長田入道(おさだにゅうどう)らを討ち取る武勲を立てます。
「小四郎、後れをとるな!」
「おぅ父上、行かいでか!」
時政と義時もここぞとばかりに大暴れ、後世にいう「鉢田山の合戦(治承四1180年10月14日)」で勝利した信義の軍勢は、京都から攻めて来る平維盛(たいらの これもり。清盛の嫡孫)の大軍を迎え撃つべく、鎌倉から進軍してきた頼朝と合流して黄瀬川(きせがわ)に布陣しました。
ちなみに頼朝は石橋山の敗戦後、包囲網を脱出して真鶴岬(現:神奈川県真鶴町)から出航。相模湾を渡って安房国(現:千葉県最南部)へと上陸し、とりあえず身の安全を確保します。
※これは景親がわざと見逃した(泳がせた)という説もあるようです。
実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】
実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【下】
その後、次第に力をつけながら鎌倉を目指し、道中で千葉介常胤(ちばのすけ つねたね)や上総介広常(かずさのすけ ひろつね)、畠山次郎重忠(はたけやま じろうしげただ)と言った大豪族たちを次々と味方につけました。
かくして無事に鎌倉へ入った頼朝は「勝ち馬に乗ろう」と続々参集してきた坂東各地の武士団を吸収し、その勢力は看過しがたいほどに膨張。
それまでは、景親から頼朝謀叛の報せを受けても「現場で処理しておいて」くらいにしか考えていなかった平家一門も、事ここに至って「これは一大事」と認識。平維盛を総大将とした討伐軍を編成し、東海道から進攻させたのでした。
さぁ、平家が繰り出す本気の大軍を、頼朝たちはどう迎え撃つのでしょうか。
【続く】
※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月