源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【五】:2ページ目
ともあれ始まった石橋山の合戦は、頼朝300の軍勢を西から祐親300、東から大庭景親3,000が挟撃。圧倒的不利な状況下において、大庭の背後からやって来る三浦一族5,000の援軍が間に合うかどうかが逆転のカギを握っています。
合戦に先立って、時政は敵の総大将たる大庭平三郎景親(おおば へいざぶろうかげちか)に言葉戦(ことばだたかい)を挑みました。互いの正当性を主張することで味方の士気を高め、敵の士気を下げるのが目的です。まずは時政が、景親をなじりました。
「大庭殿はかの鎌倉権五郎景正(かまくら ごんごろうかげまさ)が末葉=子孫なれば、その主君である八幡太郎源義家(はちまんたろう みなもとの よしいえ)が末葉なる佐殿に従うのが道理であろう!」
※その時(鎌倉権五郎景正)のエピソードはこちら。
たとえ右目に矢が刺さろうとも――武士が生命より大切なもの、鎌倉権五郎景正の武勇伝
よく「鎌倉は源氏の街」とおっしゃる方がいます。鎌倉幕府を開かれた源頼朝公の偉大さがわかりますが、彼が鎌倉に攻めて来る前、この地を拓き、代々治めてきた鎌倉一族は坂東平氏の流れを汲んでいました。今…
そうだそうだ……頼朝の軍勢は俄かに活気づいたものの、景親も負けてはいません。
「百年近くも昔のこと(後三年の役。永保三1083年~寛治元1087年)を、いつまでも未練がましい!とっくに時代は変わっておるんじゃ、相国入道(=平清盛)様より受けた御恩は、山より高く、海より深いんじゃ!」
そうだそうだ……時代遅れのロートルはすっこンでろ……形勢はあっという間に逆転されてしまいました。
「あぁ、父上……」
「それにしても、三浦の軍勢はまだかのぅ……」
願いも虚しく、頼みの綱である三浦一族は、丸子川(酒匂川)の増水で足止めを喰らって間に合わず、およそ11倍の兵力差を前にした頼朝の軍勢は、奮闘むなしく散々に打ち負かされてしまいました。
「いかん、退け!退けぇ……っ!」
義時は頼朝を護衛しながら退却、この辺りに土地勘がある土肥次郎実平の案内で、鵐窟(しとどのいわや。現:神奈川県湯河原町)へ逃げ込みます。