引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】:2ページ目
それでも消えない大津皇子という火種
683年、天武天皇は、21歳になった大津皇子に国政参加を許します。ともすれば、大津と草壁の権力争いを引き起こしかねない大津参政の理由は何であったのでしょうか?
草壁に嫡子が誕生、嫡系相承が固まる
それは、草壁皇子に待望の嫡子・軽皇子(かるのみこ)が誕生したことでした。天武天皇→草壁皇子→軽皇子という、嫡系相承の流れができたのです。
繰り返しますが、草壁皇子を頂点とし、大津皇子らが臣下としてそれを補佐する体制こそ天武天皇が望んだことでした。才能あふれる大津ならば、必ずや天武系皇統を盤石なものとしてくれるだろうという切なる思いがあったのです。
しかし、皮肉なことに大津参政が、鵜野皇后のさらなる不安を掻き立てることになったのは間違いないでしょう。
大津皇子の性格が謀反の嫌疑を引き起こした?
大津皇子の性格を物語るエピソードが『万葉集』にみることができます。ともに正妻がありながら、大津皇子が草壁皇子と石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性をめぐり争ったという話です。
大津と草壁が石川郎女に贈った和歌
大津と草壁は、石川郎女に熱烈なラブコールを込めた和歌を贈ります。
大津皇子が石川郎女に贈った一首
「あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに」(万葉集 巻2-107)
(あしひきの山の雫に 君を待ち続けて 僕は濡れてしまった)
草壁皇子が石川郎女に贈った一首
「大名児を 彼方野辺に 刈る草の 束の間も われ忘れめや」(万葉集 巻2-110)
(大名児(石川郎女)が述べで草を刈る束の間も、僕は君のことを忘れることはない)
石川郎女が大津皇子に返答した一首
「我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを」 石川郎女(万葉集 巻2-108)
(私を待ってあなたが濡れてしまったというう山のしずくに私もなりたいわ)
今をときめく、二人の貴公子から熱烈なラブコールを贈られた石川郎女。彼女が選んだのは、皇太子の草壁ではなく大津でした。